福岡県宗像市 赤間宿跡

赤間宿唐津街道の宿場町。
神武天皇がこの地を通行した際、
道に迷って困っていると、
赤い馬に乗った老人が現れて、
一行の道案内をしたという。
赤間(赤馬)の地名はこれに由来します。


現地案内板。
唐津街道には案内板が設置されており、
これが意外に便利だったりします。

東口から散策。

東構口跡」。
JR教育大前駅にある東構口跡
橋が架けられていますが、
下は川ではなくJR鹿児島本線の線路。
小倉側の街道は福岡教育大学の敷地となり、
その間の道は無くなってしまっています。


追分」。
須賀神社鳥居前にある木屋瀬宿への追分。
木屋瀬宿から長崎街道に合流しますが、
この間道赤間道内往還と呼ばれ、
江戸中期頃よりこの道がメインとなります。


須賀神社」。
追分から赤間道に入るとすぐにある神社。
近隣の七社宮境内に祀られていたものを、
永禄9年(1566)に現在地に遷座し、
追分の鬼門除けとした事に始まり、
赤間祇園社として地元で信奉されたという。


節婦阿政之碑(右)」、
石松林平 伴六碑(左)」。
須賀神社境内にある2つの顕彰碑。
お政大黒屋七兵衛の後妻の娘で、
父の生前に本家の息子と許嫁となりますが、
本家の衰退で嫁げなくなっていました。
これに勝浦の大庄屋が息子の嫁にと、
お政に再三の申し入れを行いますが、
亡き父の遺言に背くのは親不孝で、
 衰微した本家を見捨てるのは、
 女の節操ではない
」 と考え、
断りきれずに了承しましたが、
婚礼の夜に自害してしまいました。
頼山陽は後にこれの話を聞き、
節婦阿政伝としてお政を称えたようで、
彼女は宗像三偉人のひとりとなっています。
※他の2人は武丸正助貞婦はん

石松家徳重村の豪農で代々村役を務め、
石丸林平と従兄弟で義弟の石丸伴六は、
質素倹約を心がけて荒地を開いて植林し、
農村の振興に努めました。
天保の大飢饉の際にも人々を救済し、
宗像米を薄利で貸し出す制度を開始。
後にこの制度は郡内に広まったという。
五卿が赤間宿に滞在した際には、
その接待にも参加しています。

追分まで戻って街道を南下。
法然寺の横に五卿西遷之遺跡碑があります。

五卿西遷之遺跡」碑。
この碑や五卿の赤間滞在については、
以前に記事にしています。
福岡県宗像市 五卿西遷之遺跡


御茶屋跡」。
宗像市立城山中学校のグランド辺りが、
福岡藩御茶屋があった場所。
遺構や跡碑はありません。
五卿が25日間滞在したのは、
この場所のようです。

街道筋に戻って更に南下。

恵比須屋出光本家跡」。
庄屋を務めた恵比須屋出光本家跡
赤間宿には出光姓が多く、
現在も数件が居住しているようです。
昭和天皇の海軍侍従武官出光万兵衛の生家。


松屋出光家跡」。
藍問屋を営んでいた松屋出光家跡で、
出光興産の創始者出光佐三の生家。
明治18年にこの家で生まれた佐三は、
門司出光商会を開業し、
石油や機械の販売等で成功を収め、
昭和15年に出光興産となり、
石油元売り大手として発展させました。
第二次世界大戦後は石油メジャーに対し、
喧嘩を売った事でも知られており、
百田尚樹著「海賊とよばれた男」で、
近年に脚光を浴びています。


赤馬館(右)」と「勝屋酒造(左)」。
赤馬館は赤間宿の観光拠点。
往時は刀鍛冶呉服商だったようですが、
屋号等はよくわかりません。
その隣の勝屋酒造は現在も続く造酒屋。
赤間宿は往時は14軒も酒屋があり、
白酒の里として知られたようですが、
現在はこの勝屋酒造のみ残っています。


西構口跡」。
赤間構口交差点が西樋口のあった場所。
交差点の名称となってわかりやすい。

他にも古い町屋が点在しており、
通りを歩くのも楽しいのですが、
車の交通量がかなり多くて、
家族連れで歩くのはかなり危ない。
子供を連れて来ていたのですが、
一緒に歩くのは断念しました。

■唐津街道の宿場町

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