祥雲寺は福岡藩2代藩主黒田忠之が、
父黒田長政の菩提を弔う為に建立した寺院。
始めは赤坂の藩中屋敷に建てられましたが、
麻布市兵衛町への移転を経て、
寛文8年(1668)の大火で渋谷に再移転し、
現在に至っています。
黒田家に縁のある諸大名が菩提寺とし、
墓地には諸大名の墓が林立。
その多くが状態よく残っています。
「本堂」。
祥雲寺には多くの将軍や徳川一門が来訪し、
鷹狩りの休憩所として利用されたという。
東京大空襲の戦火も免れていましたが、
昭和29年に放火によって全焼しており、
現在の本堂はその後に再建されたもの。
「荒井君碑」。
旧幕臣荒井郁之助の顕彰碑。
祥雲寺入口を入ってすぐの場所にあります。
荒井は幕府の海軍職を多く務め、
蝦夷共和国では海軍奉行となっており、
箱館戦争後は獄中生活を経て新政府に出仕。
開拓使として測量等を行った後、
内務省地理局の測量課長となりました。
明治20年には初の皆既日食観測を行い、
後に初代中央気象台長に就任しています。
「荒井郁之助
配 松本氏 墓」。
荒井郁之助とその妻トミ子の墓。
荒井は小普請方荒井顕道の長男で、
航海術や測量術、数学に通じ、
文久2年に軍艦操練所頭取に就任。
元治元年に講武所頭取となり海軍から離れ、
慶応元年に歩兵差図役頭取、
慶応3年に歩兵頭並へと昇進します。
慶応4年には軍艦頭として海軍職に復帰。
海軍副総裁榎本武揚らと江戸を脱出し、
蝦夷共和国の海軍奉行となり、
箱館戦争の宮古湾海戦では回天に乗艦。
箱館湾海戦でも指揮を執りました。
敗戦後は2年半の獄中生活を送り、
開拓使として新政府に出仕。
内務省地理局を経て中央気象台長となり、
明治42年に死去しています。
温和で身分や学歴におごらぬ謙遜家で、
部下に優しかったようですが、
戦いでは勇猛であったという。
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