三机湊は天然の砂嘴のある良港で、
古来より避難港として要衝だったという。
江戸時代は宇和島藩領となっており、
藩主の参勤交代のルートとなって、
三机湊より瀬戸内海に出航しました。
その為に御仮屋が設置され、
藩主の休憩宿泊に使用した他、
九州諸藩主も嵐を避けて寄港する為、
侍番所も設置されています。
※宇和島藩の参勤交代の基本ルートは、
宇和島から船で佐田岬南側の塩成まで行き、
陸路三机まで行って更に船に乗るコースと、
塩成ではなく川永田に上陸して、
三机まで陸路で行くコース(時化の場合)、
宇和島から三机まで陸路のコースの3つ。
伊方町三机周辺。
中央の鉤型の岬が砂嘴。
「三机湊」。
権現山から望む三机湊。
三机の名は古くは御着江だったようで、
神武天皇が嵐で漂着した為に、
御着江(みつくえ)と呼ばれたという。
また大分の宇佐神宮の分霊が、
この地に流れ着いたからとも伝えられ、
未机八幡神社がその分霊とされます。
藩政時代は船溜まりとなっており、
宇和島藩主の御座船や九州諸藩の船が、
ここに係留されていました。
「三机御仮屋跡」。
瀬戸町民センターの横より山側へ行くと、
御仮屋が建てられていた場所に着きます。
建物は残っていませんが、
石垣が状態良く残されていました。
八幡神社の鎮座する砂嘴へ。
「三机八幡神社」。
天平5年(733)に創建されたという八幡社。
現在の社殿は明治31年再建のもの。
宇和島藩主や九州諸候も航海安全を祈願し、
この神社に参拝したとされ、
明治時代には大久保利通も参拝したという。
「六艘堀」。
境内にある庭池のような水たまり。
これは時化の際に舟を繋いでいた場所で、
六艘程入れた為に六艘堀と呼ばれました。
昔は海と繋がってたって事かな?
三机湾は真珠湾と似ているらしく、
海軍の極秘訓練基地に選ばれ、
特殊潜航艇の訓練が行われたという。
真珠湾攻撃で未帰還となった九軍神も、
この三机湾で訓練していたようで、
砂嘴には九軍神慰霊碑もありました。
■関連記事■
・愛媛県西宇和郡 堀切峠
三机と塩成を結ぶ人口の通路。
・愛媛県宇和島市 宇和島城
宇和島藩伊達家の居城跡。