愛媛県西宇和郡 堀切峠

四国の最西に突き出るように伸びる佐田岬
その先端は九州佐賀関と僅か14kmの距離で、
狭くなっている為に潮流が非常に速く、
そこで獲れる関あじ関さばは、
身が引き締まり脂がのっています。


佐田岬」。
四国から突き出た巨大な防波堤のよう。
佐多岬と佐賀関の間は速吸瀬戸と呼ばれ、
古来より海路の難所と知られており、
通行する船を悩ませていました。
仮にこの岬がなかったならば、
伊予灘宇和海の航行が楽になる。
消すのは無理なので運河を造ろうと考え、
実際に工事を行った大名がいたという。
それが富田信高でした。

富田信高は豊臣秀吉の側近富田知信の子で、
父の隠居により安濃津5万石を相続。
石田三成と不仲であった為か、
関ヶ原の戦いでは安濃津城に籠城し、
3万の西軍相手に奮戦するも降伏しました。
降伏後は剃髪して謹慎していましたが、
東軍勝利に伴い7万石の加増で旧領に復帰。
後に宇和島(当時は板島)に加増転封となり、
領内の整備を行っています。
特に海運の重要性を感じた信高は、
海岸線の整備を力を入れており、
佐田岬の水路もその一環でした。
海路短縮を考えた信高は、
岬で一番狭い塩成三机の間を掘削し、
運河の造る事を計画。
半島の浦里から男女を問わず人夫を集め、
約3年間工事させましたが、
岩盤であった為に難工事となり、
殆ど進まなかったという。


堀切」。
運河建設工事の跡である堀切
谷のようになっていますが、
人工的に掘られたもの。
三机と塩成を繋ぐ最短道路となっており、
運河とまではいきませんが、
現在も役に立っているようです。

信高は工事から3年後に改易。
罪人であった義弟宇喜多左門を匿い、
この罪を訴えられた為とも、
大久保長安事件に連座したともされますが、
この無謀な工事が原因ともされています。
難工事による犠牲者は不明ですが、
一説には数万人にも及んだという。

その後に宇和島藩には伊達秀宗は入封。
廃藩置県まで伊達家が統治していますが、
宇和島藩の参勤交代のメインルートは、
宇和島から御座船で塩成に渡り、
堀切を通って三机に向かい、
そこから再度御座船に乗ったとのこと。
四賢候のひとり伊達宗城も通った事でしょう。


塩成」。
南側の集落。
御座船がここに入港したようです。


遠巻きから堀切を望む。
これを見ればどれだけ無謀かわかりますね。
3年で3%しか出来てなかったらしいので、
単純計算で100年は掛かります。
そもそも全て掘削したとしても、
伊予灘と宇和海の潮位差はどうする?
スエズ運河のような方式をとらないと、
速吸瀬戸より激流になるのでは?
とにかく中止されて良かったですね。

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 宇和島藩伊達家の居城跡。
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