長崎県大村市 大村護國神社

大村藩4代藩主大村純長は、
徳川家歴代将軍を祀る神社として、
円融寺という天台宗の寺院を創建。
この寺が幕末に廃寺となって、
戊辰戦争戦没者を祀る招魂社が建てられ、
後に大村護國神社と改めました。


大村護國神社」。
円融寺を建立した大村純長は、
勘定奉行であった伊丹勝長の四男で、
3代藩主大村純信の養子となりますが、
正式に継嗣の許可が下りる前に、
純信が死去してしまい、
大村藩は存亡の危機を迎えます。
この事態に3代将軍徳川家光は、
自らの裁量で跡目相続を許可。
大村藩は改易の危機を回避しましたが、
その恩義に報いる為に幕府の許可を得て、
この円融寺を建立しました。
本来将軍家を祀る寺院の建立は、
御三家及び5万石以上の大名に認められ、
大村藩には許されないものでしたが、
純長の強い懇願によって許されたという。
境内は下段に日の池月の池を配し、
長い石段先の上部に本堂が建てられ、
その背後に石庭を作庭した雄大なもので、
庭園は国指定名勝となっています。


石段を上ると広々とした敷地が広がり、
大きな本堂等の建物があったと思わせます。


社殿」。
敷地の広さに似合わず小さな社殿。
しかも中央ではなく端に寄せられています。
これは多分石段を上った際に、
見事に広がる庭園を見せる為、
敢えてこの様にしたものでしょう。
なかなかですね。


舊大村藩勤王同盟三十七士」。
大村藩勤皇派37名の招魂碑。
明治36年に建設が始まったようで、
松林廉之助を筆頭に死没順に建てられ、
大正6年に以下37基が揃ったようです。
贈従四位松林廉之助靈
贈従五位梅澤武平霊

贈正五位宇田太左衛門霊

贈従五位朝長熊平靈

贈従五位福田弘人靈

贈従五位村山興右衛門靈

正五位松田宣風靈

贈従五位山川前耀靈

贈従五位常井邦衛靈

贈従五位根岸主馬靈

贈従五位濱田彌兵衛靈

贈従五位藤田周敏靈

贈従五位加藤勇靈

贈従五位中村平八靈

従六位長岡治三郎靈

贈従五位十九貞衛靈

贈従五位久松源五郎靈

贈従五位土屋善右衛門靈

贈従五位小佐〃祐利靈

従二位勲一等男爵楠本正隆靈

贈従五位北野道春靈

従二位勲一等男爵渡邊清靈

贈従五位中尾静摩靈

従四位兒玉九左衛門靈

正五位勲五等中村公知靈

正七位喜多陳平靈

贈従六位山川宗右衛門靈

贈従六位澤井官兵衛靈

正五位松浦照靈

正五位稲田又左衛門靈

従六位野澤俊元靈

従六位柴江運八郎靈

正五位勲四等浅田照靈

正二位勲一等子爵渡邊昇靈

従六位長岡重弘靈

従六位原三嘉喜靈

従六位戸田又蔵靈

コメントにてご指摘があり、
 上記3番目の宇田太左衛門は、
 正確には宇多太左衛門とのこと。

 位階は記載ミスなので訂正しましたが、
 基本的に墓碑銘を準拠としていますので、
 注釈にて訂正させて頂きます。



松林廉之助漸神靈」。
藩校五教館祭酒松林廉之助飯山の碑。
上記三十七士の筆頭ですが、
別に大きな碑が建てられています。
松林は大村藩医松林杏哲の子で、
幼い頃から神童の誉れが高かったとされ、
12歳で藩主大村純熈唐詩選を進講。
これを切っ掛けとして藩士となり、
藩校五教館の表定詰となりました。
嘉永5年には江戸に出て安積艮斎に学び、
昌平黌にも入学して助教となっています。
藩は五教館の祭酒に任じようとしますが、
これを辞退して次席の学頭に就任。
万延元年には上方で京都政情を探索し、
大坂松本奎堂らと雙松岡塾を開きますが、
隻眼の松本奎堂、岡鹿門(仙台藩士)、
 そして松林の3人による塾。

京都所司代に睨まれて閉鎖。
大村に戻って五教館の祭酒となります。
やがて大村藩勤皇派の首魁となりますが、
慶応3年に藩内佐幕派に暗殺されました。
この事件を機に佐幕派の粛清が行われ、
藩内が勤皇に統一される事となります。


旧円融寺庭園」と、
戊辰の役戦没者の碑」。
斜面を利用した枯山水式の石庭は、
国指定名勝となっており、
この美しい庭を背後に招魂碑が並び、
結界のようになっています。
大村藩は2万8000石程度の小藩ですが、
英国式軍制の精鋭部隊を持ち、
鳥羽伏見の戦いから上野戦争を経て、
磐城二本松会津角館等に従軍し、
少数ながら多くの戦いで戦功を挙げ、
薩長土に継ぐ賞典禄3万石を受けました。
これらの招魂碑はその戦没者のもので、
15歳の鼓手浜田謹吾も含まれます。
建てられている招魂碑は以下。
片山好馬藤原友真淵山規矩蔵菅原貞良
山田慎造藤原正義香取官司藤原久勝
朝長條平藤原信義辻源四郎藤原佐利
森連平源可慎隈紀八郎平包俊
稲垣登守藤原伯友堀江良一藤原貞伸
濱田謹吾藤原重俊森〇太郎藤原〇
森治兵衛藤原治吉井手〇八郎源〇光
澤〇四郎平〇家内田五助橘豊成
〇〇渡助藤原〇〇福永孫四郎藤原種美
〇野英太郎藤原重之山口茂助忠重
田添彌十上野〇〇衛門藤原美〇
※右側(南西側)の碑の風化が激しい模様。
 理由はわかりません。


招魂社や護国神社は山や木々に囲まれ、
少々暗い場所が多かったり、
鬱蒼としている場所が多いのですが、
この大村護國神社は清々しい場所でした。

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長崎県大村市 大村護國神社」への2件のフィードバック

  1. 彩帆

    大村藩家老 宇田太左衛門は正しくは宇多太左衛門です
    皇室から贈与されたのは
    正しくは 贈正五位です
    国立公文書館で調べてください

    返信
    1. kii 投稿作成者

      >彩帆 様
      承認&返信遅れまして申し訳ありません。

      贈従五位から贈正五位に訂正致しました。
      完全な記載ミスです。失礼致しました。
      名前に関しては基本的に墓碑銘を準拠とし、
      贈正五位宇田太左衛門霊としましたが、
      正確には宇多太左衛門なのですね。
      注釈で訂正しておきます。
      情報ありがとうございます。

      返信

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