了法寺は三浦長門守初代当主三浦為春が、
所領の上野山村に建立した寺院。
後に坂田にあった浄土寺跡に移転し、
日蓮宗から天台宗に変わったようです。
三浦長門守家は紀州藩の御附家老で、
初代藩主徳川頼宣の実母於万の方は、
為春の妹であった為に、
藩主外戚として重きを成していました。
「了法寺」。
了法寺は為春が父正木頼忠の菩提を弔う為、
日蓮宗不受不施派寺院として建立したもの。
※頼忠、為春は不受不施派の信者であった。
しかし不受不施派は幕府の禁制となり、
為春の死去後に天台宗に改宗しています。
この了法寺の釈迦堂には、
珍しい立体涅槃像があるらしく、
毎年3月15日に御開帳するという。
その釈迦堂脇より頼忠と為春の墓所へ。
「了法院殿日正居士
智光院殿日種雷王尼」。
正木頼忠と正室智光院の墓。
頼忠は南総里見家の家臣で、
三浦長門守家初代三浦為春や、
紀州藩初代徳川為春の生母養珠院の父。
娘の於万が徳川家康に見初められ、
側室として寵愛を受けた為、
家康より出仕を求められていますが、
これを固辞して代わりに為春を出仕。
頼忠は変わらず里見家に仕えており、
里見家当主里見頼忠から一門扱いされ、
家中で格別な待遇を与えられています。
後に里見家が改易になると、
為春を頼って紀州で余生を過ごし、
貴志荘上野山村で死去しました。
正室智光院は北条氏隆の娘、
北条氏尭の養女、田中泰行の娘など、
その出自は諸説あるようです。
「大雲院殿一之環日健居士」。
三浦長門守家初代三浦為春の墓。
為春は正木頼忠の次男に生まれますが、
出生時の父頼忠は後北条家の人質で、
当主で伯父の正木時通の急死により、
父が帰還して家督を相続しても、
後北条家に残されていました。
※その後の天正14年に帰還。
妹の於万が家康の側室となると、
父に代わって徳川家に仕官。
家康に先祖の三浦姓に復すを許され、
三浦為春と名乗り長門守を称します。
家康十男で於万の子長福丸が生まれると、
その傅役を命じられており、
2歳で水戸藩主となった長福丸を補佐。
後に長福丸は元服して徳川頼宣を名乗り、
駿府藩50万石に転封し、
頼宣が加藤清正の娘八十姫を娶る際は、
結納使となって肥後国で納幣。
大坂の陣でも頼宣に従って出陣し、
頼宣が紀州藩に加増転封されると、
1万5千石を与えられています。
「光耀院殿星悟日明覺霊尼(右)」、
「宝篋印塔(左)」。
2代当主三浦為時の娘光耀院の墓と、
よくわからない宝篋印塔。
たぶん開山時に建てられたようです。
2代以降は本堂の裏手。
「三浦家墓所」。
本堂裏にある墓地の山側にある三浦家墓所。
「三浦長門守平為時 逆修(右)」。
※正室らしき隣の墓は碑銘が読めず。
三浦長門守家2代当主三浦為時の墓と、
その正室の墓(たぶん)。
初代為春の三男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
附家老水野重良と共に大老となり、
紀州藩の藩政を担っています。
「三浦長門守従五位下平為隆 逆修」。
三浦長門守家3代当主三浦為隆の墓。
2代為時の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しています。
将軍徳川綱吉の娘鶴姫と、
世子徳川綱教の婚姻の際には、
御輿受取役を務めました。
東山天皇即位式の祝賀使も務め、
藩主光貞の大納言叙任謝使も務めました。
その他にも藩主名代を多く務め、
徳川吉宗が将軍に就任する際は、
補佐役となる事を命じられますが、
紀州藩家老を務める立場として固辞。
以後も紀州徳川家を支えました。
「三浦長門守従五位下平為恭 逆修(右)」、
「常往院心親宣譲大姉 逆修(左)」。
三浦長門守家4代当主三浦為恭の墓と、
その正室常往院の墓。
3代為隆の弟の中川元宣の子で、
男子のいない叔父の為隆の婿養子となり、
養父の死後に伴い家督を相続。
桃園天皇即位の祝賀使や、
朝鮮通信使供応を務めています。
「三浦長門守従五位下平為脩」。
三浦長門守家5代当主三浦為脩の墓。
紀州藩7代徳川宗将の八男として生まれ、
4代当主為恭の養嫡子となり、
養父の死去に伴い家督を相続しています。
兄の8代藩主徳川重倫が強制隠居され、
西条藩5代松平頼淳に家督を譲りますが、
※藩主就任後に徳川宗直に改称。
その後も兄の側近として終生仕えたという。
「三浦主膳正従五位下平為積」。
三浦長門守家6代当主三浦為積の墓。
5代為脩の長男として生まれ、
父の死去で僅か9歳で家督を相続。
31年の当主在籍後に隠居しています。
「三浦長門守従五位下平為章」。
三浦長門守家7代当主三浦為章の墓。
6代為積の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
18年の当主在籍後に病で死去しました。
「従五位男爵三浦権五郎平為質」。
三浦長門守家8代当主三浦為質の墓。
7代為章の四男として生まれ、
父の死去に伴い僅か9歳で家督を相続。
14代藩主徳川茂承の側近として行動し、
維新後は権五郎を名乗ります。
明治2年には権大参事に就任しますが、
翌年には病を理由に辞任。
廃藩置県後も和歌山に残っており、
明治9年には南龍神社社司となりました。
第四十三国立銀行設立の発起人となり、
初代頭取には養子三浦三七が就任。
明治17年に教部省権中講義となり、
明治30年に徳義社議長となっています。
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