東京都文京区 吉祥寺

吉祥寺は長禄2年(1458)に太田道灌により、
江戸城西の丸に建立された曹洞宗寺院。
徳川家康江戸入府に伴い駿河台に移転し、
明暦3年(1657)の振袖火事で焼失した為、
現在地に移ったようです。

吉祥寺といえば武蔵野市の吉祥寺
住みたい町ランキング上位ですが、
ここに吉祥寺という寺はありません。
上記のように吉祥寺は移転前は駿河台で、
武蔵野市の吉祥寺周辺にあった事は無し。
では何故吉祥寺なのか??
これは振袖火事が原因のようで、
吉祥寺の焼失と共に門前町も延焼。
その住民も焼け出されており、
これらの被災者に与えられた移住地が、
現在の武蔵野市吉祥寺周辺でした。
被災者達はそこを開墾して村となり、
かつての門前町を懐かしんで、
吉祥寺村と名付けられたとのこと。

多くの大名墓があることで知られており、
是非とも来たかった寺院のひとつでした。

本堂」。
本堂東京大空襲で焼失しており、
戦後に再建されたもの。


経蔵」。
文化元年(1804)建立の経蔵。
戦災を免れた貴重なもので、
都内唯一の江戸期の経蔵のようです。


お七 吉三郎 比翼塚」。
天和2年(1682)の大火の際に、
本郷の八百屋市左衛門一家は吉祥寺に避難。
そこで市左衛門の娘お七は、
寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。
やがて八百屋市左衛門一家は本郷へ帰り、
日常の生活に戻りました。
しかしお七は吉三郎が忘れられず、
火事が起きればもう一度逢えると、
再建された自宅に放火
火はすぐに消し止められましたが、
お七は放火の罪で捕縛され、
鈴ヶ森刑場火刑となりました。
色々と異説もあるようですが、
お七という女性が放火したのは事実です。
比翼塚は昭和41年に建立されたもの。


二宮尊徳先生菩提塔」。
農政家二宮尊徳の墓。
二宮尊徳は小田原の百姓の子で、
貧困の中で働きながら学問に打ち込み、
奉公する小田原藩家老服部家にて、
家政の立て直しに成功。
やがて藩主大久保忠真の目に止まり、
旗本大久保家の財政再建を任じられ、
成功させました。
これを機に他方で再建復興に取り組み、
この手法は報徳仕法と呼ばれ、
諸領諸村から仕法の要請が相次ぎ、
約600村を救ったとされています。
晩年は幕臣に取り立てられており、
幕府領の再建に取り組みました。
最近は学校で見かけなくなりましたが、
牧を担ぎながら本を読む二宮金次郎像は、
尊徳の幼年期の像です。

さて、次回より吉祥寺墓地を巡りますが、
今回の訪問で網羅は出来ませんでした。
情報なく発見した墓もあれば、
見つけられなかったり見落とした墓、
後である事を知った墓もあったりで、
再度の訪問が必要なようです。
個人的な感覚は青山霊園谷中霊園等、
巨大霊園を巡っている感覚でした。

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