吉祥寺にある新発田藩溝口家の墓所。
新発田藩の初代藩主溝口秀勝は
幼少より丹羽長秀に仕えていましたが、
織田信長の直参となり5000石を拝領。
本能寺の変の後は羽柴秀吉に味方し、
その後に丹羽長秀に再び仕え、
大聖寺4万4000石を与えられます。
後に独立して新発田6万石を与えられ、
廃城となっていた新発田城を再建。
関ヶ原の戦いで東軍に属し、
6万石の所領を安堵されました。
※初代秀勝の墓所は新発田の寶光寺。
「松嶽寺殿傑岑善英大居士(左)」、
「長壽院殿方屋慶圓大姉(右)」。
2代藩主溝口宣勝の墓とその正室の墓。
初代秀勝の長男として生まれ、
父と共に秀吉に仕えて、
後に関ヶ原で東軍に組しました。
父の死に伴い家督を相続し、
弟溝口善勝に1万2000石を分与。
新発田藩は5万石となりましたが、
積極的な新田開発を行っており、
その新田分を息子らに分与しています。
18年の治世の後に江戸で死去し、
吉祥寺に葬られた為、
以後の江戸で死去した藩主は、
吉祥寺に葬られる事となりました。
正室の長壽院は堀秀政娘で、
4人の息子は当主及び旗本になっています。
「寒光院殿禪林味歇大居士」。
3代藩主溝口宣直の墓。
2代宣勝の長男として生まれ、
父の死に伴い家督を相続。
江戸城の修繕普請、将軍上洛随行、
若松城在番、勅使饗応役等を務め、
藩内の災害や江戸屋敷の火災が重なり、
財政難に陥っています。
44年の治世の後に隠居し、
その2年後に死去しました。
「悠山院殿勝林宗慧大居士」。
4代藩主溝口重雄の墓。
3代宣直の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
法整備や総検地等を実施しており、
藩政を確立させた藩主とされ、
文芸や芸能にも心を寄せ、
溝口悠山を号す茶人でもあったという。
34年の治世の後に隠居し、
2年後に死去しました。
「陽元院殿智應道海大居士」。
5代藩主溝口重元の墓。
4代重雄の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
藩内で学問を奨励して高名な儒者や、
軍学者を招集しています。
13年の治世の後に死去。
「大機院殿天眞全用大居士」。
6代藩主溝口直治の墓。
5代重元の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
越後蒲原の幕領4万3000石を預かり、
後に更に2万石を預けられています。
領内で繰り返される水害に対し、
大規模な治水工事を実施。
財政難に苦しんだ13年に治世の後、
26歳の若さで死去しました。
後日ネットで調べると、
7代溝口直温、8代溝口直養、
9代溝口直候、10代溝口直諒、
12代溝口直正の墓も、
この吉祥寺の墓地にあったらしい。
完全に見落としました。
またいつか補完致します。
なお11代溝口直溥の墓は、
豊島区法明寺の東墓地。
また新発田市の寶光寺にも、
歴代の墓所があるようです。
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新発田藩溝口家の居城跡。