下関市阿弥陀寺町 与次兵衛ヶ瀬の碑

阿弥陀寺町の姉妹都市ひろばという場所に、
与次兵衛ヶ瀬の碑があります。


与次兵衛ヶ瀬の碑」。
関門海峡は狭い場所で約650m程、
そこに1日約510隻の船が行き交い、
多くの船舶が通行していますが、
やはり現在も海運の難所でとのこと。
現在は浅瀬の除去、信号やブイの設置、
浚渫工事等で安全が保たれていますが、
昔はもっと危険な海峡でした。
その最大の難所が与次兵衛ヶ瀬で、
現在は取り除かれてはいますが、
当時は座礁する船も多かったという。

天正20年(1592)に豊臣秀吉は、
肥前名護屋城で母大政所の危篤の報を受け、
急ぎ船で大坂へと向かいました。
細川忠興手配の秀吉座乗船日本丸は、
関門海峡通行中に浅瀬で座礁。
※当時は死の瀬(篠瀬)と呼ばれていた。
先行していた毛利秀元の船がこれに気付き、
秀吉を救出して事なきを得ています。
しかし船頭である船奉行明石与次兵衛は、
この件で死罪(自刃又は斬首)となっており、
後に豊前国を領す事となった忠興は、
この死の瀬に目印となるようにと、
与次兵衛の慰霊碑(石塔)を建立。
以降この瀬は与次兵衛ヶ瀬と呼ばれました。


与次兵衛ヶ瀬のあった辺り。
こんな場所に浅瀬があったのであれば、
確かにかなりの難所となったでしょう。


シーボルトもこれに興味を持ったらしく、
江戸参府紀行」に瀬の事を記載し、
石塔のスケッチも残しています。

明治に入るとこの瀬に礁標が設置され、
石塔は海中に破棄されました。
これが明治45年に引き上げられ、
内務省下関土木出張所の裏庭に設置。
しかし昭和18年に再び海に破棄され、
更に昭和29年に再度引き上げられます。
翌年に和布刈公園に設置された後、
昭和47年に園内移設されました。
つまりこの碑はレプリカで、
現物は対岸の和布刈公園にあります。
福岡県北九州市 仏水兵戦死者記念碑

ちなみに上のスケッチでは、
方柱ですが和布刈公園の実物は円柱。
姉妹都市ひろばのレプリカは、
和布刈公園の実物を模していますが、
見比べるとあまり正確ではないようです。

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 ブラントン設計の現役灯台。