朝鮮通信使は室町~江戸時代にかけて、
朝鮮から日本へ派遣された外交使節団。
豊臣秀吉による朝鮮出兵により、
朝鮮との国交は断絶していましたが、
幕府は朝鮮との国交回復を図り、
紆余曲折を経て通信使が再開されます。
慶長12年(1607)に第1回が始まると、
以後は12回の通信使が派遣され、
※最後の12回は対馬止まり。
将軍襲封等の祝賀を行いました。
文化8年(1811)の最後の通信使は、
対馬で易地娉礼が行われ、
以後は幕末の動乱期の為に延期され、
そのまま終了しています。
朝鮮通信使の一行は釜山から対馬に渡り、
壱岐、相島を経由した後、
赤間関から本州へ上陸しました。
※以降は上関、蒲刈、鞆浦、牛窓、
室津、兵庫、大坂まで海路。
その後は陸路で京都、彦根、大垣、
名古屋、駿府、箱根、小田原を経て、
江戸に到着しました。
※このうち宴席は赤間関、鞆、大坂、京都、
名古屋、駿府のみ。
「赤間神宮海参道」。
海峡守護の碇の置かれた海参道。
実際にここから上陸したか不明ですが、
宿泊は阿弥陀寺(赤間神宮の前身)ですので、
ここからの可能性はあると思います。
「朝鮮通信使上陸淹留之地」碑。
海参道の隣にある碑。
500人を超える通信使節団が上陸し、
阿弥陀寺や引接寺に滞在したようですが、
中には無作法な連中もいたようで、
色々とトラブルもあったようです。
日本人は当時より衛生的な民族であり、
使節団との文化の違いには、
各地の民らも困っていたともいう。
とはいえ下関ではその手の伝承は無い。
下関は最初の本土上陸地だった故に、
彼らもそれ程羽目は外せなかったのかも?
■関連記事■
・幕末朝鮮史
幕末の頃の李氏朝鮮は?
・下関市唐戸周辺 赤間関宿跡
西国街道の終点。
・下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
安徳天皇を祀る神宮。
・広島県福山市 鞆の浦①
朝鮮通信使の宴席が開かれた鞆の浦。