甲宗八幡神社は門司にある神社で、
宇佐神宮より八幡神を岩清水に分祀する際、
門司関で瑞兆が起こった為、
これを喜んだ清和天皇の勅願により、
八幡神が分祀されて創建。
神功皇后着用の甲冑が奉斎されたという。
壇ノ浦の戦いの際は源範頼が参詣し、
重藤弓を奉納して必勝を祈願。
戦勝後には弟の源義経と共に、
社殿の造営を行ったとされています。
建武3年(1336)には足利尊氏により、
社領の寄進と社殿造営が行われ、
豊後の戦国大名大内氏からも、
代々篤い崇敬を受けていたという。
大内氏滅亡簿は毛利元就により尊崇を受け、
江戸時代に入ると小倉藩の細川家、
次いで小笠原家に崇敬を受けました。
「甲宗八幡神社」。
参道石段と一之鳥居、二之鳥居。
ニ之鳥居は出光興産創業者出光佐三の寄進で、
それ以前は壮麗な二層造楼門でしたが、
空襲によって焼失してしまったようです。
因みに戦後進駐軍がこの石段を、
ジープで駆け上がった事があるそうで、
その際の傷が石段に残っているとの事。
※気が付きませんでした。
罰当たりな・・とは思いつつも、
ジープも凄いなと思いますね。
「拝殿」。
左右に隅楼を配した拝殿。
小倉藩小笠原家より絶大な尊崇を受け、
藩内守護社の首座に位置付けられ、
度々社殿の造営や社領寄進が行われて、
隆盛を誇っていたようです。
しかし慶応2年の小倉戦争では、
長州藩の乙丑丸の砲撃により焼失。
その後の明治元年に再建されますが、
本殿は長州藩が造営し、
拝殿は香春藩(小倉藩)が造営しており、
珍しい越境型の社殿となりました。
その後の明治、大正、昭和初期と、
門司が大きく発展した事により、
大規模に造営が行われたようですが、
昭和20年の空襲で焼失。
現在の社殿は門司区長谷にあった武徳殿を、
昭和33年に社殿として移築したもの。
「伝平知盛墓(左)」、
「平知盛供養塔(右)」。
拝殿右側にある平知盛の墓。
知盛は平清盛の四男で、
勇猛果敢な武将として知られています。
壇ノ浦の戦いで碇を背負って入水し、
遺体となって門司に流れ着いたとされ、
これを里人が憐れんで筆立山に埋葬。
後の昭和24年の水害の際に、
墓石が拝殿の裏に土砂と共に流れた為、
この場所に再祀したようです。
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