谷中霊園にある関宿藩久世家の墓所。
久世家は三河国の国人小野高広の子高長が、
母方の姓を称して久世高長を名乗った家で、
子久世長宣が三河一向一揆で松平家に背き、
宗門側に組して討死していますが、
子の久世広宣が元服後に徳川家康に許され、
大須賀康高の配下に組み込まれています。
そこで与力として戦功を挙げた広宣は、
後に直参旗本に取り立てられており、
次代久世広当は弟の久世広之に500石を分与。
宗家広当の系譜は旗本として続きますが、
弟広之は3代将軍徳川家光の小姓を務め、
加増を重ねて大名となっており、
更に4代将軍徳川吉綱の側衆となって、
若年寄を経て老中に出世しています。
この間に加増を重ねて5万石となり、
板倉重常が伊勢亀山藩に加増転封された為、
関宿城を拝領して関宿藩を立藩。
次代久世重之が庭瀬藩に転封となりますが、
丹波亀山藩、三河吉田藩を経て関宿藩再封。
その後は関宿藩主に定着しました。
「久世家墓所」。
鳥居の設置された久世家の墓所。
ここに9代以降の当主の墓があります。
8代以前の墓は豊島区巣鴨の本妙寺。
「正四位久世廣文墓」。
8代藩主久世廣文の墓。
7代藩主久世廣周の長男に生まれ、
父廣周が失政を理由に強制隠居となった為、
僅か8歳で家督を継いでいます。
藩政は家臣団によって行なわれており、
幕末期に采配を下す事はありませんでした。
家臣間で勤皇派と佐幕派に分裂し、
藩の主導権をめぐっての抗争が勃発。
廣文は佐幕派に囲われて新政府軍と戦い、
後に強制隠居となっています。
明治32年、死去。
「正三位子爵久世廣業墓」。
9代藩主久世廣業の墓。
7代廣周の次男として生まれ、
兄が佐幕派と共に新政府軍と戦った事から、
減封のうえ強制隠居処分となった為、
その家督を相続して最後の藩主となります。
僅かな期間藩主及び知藩事を務めた後、
廃藩置県により免官。
明治17年に子爵に叙任され、
久世子爵家の初代当主となりました。
明治44年、死去。
「正四位子爵久世廣英墓」。
久世子爵家2代久世廣英の墓。
子爵家初代廣業の長男として生まれ、
父の死去に伴い子爵となっています。
昭和2年、死去。
久世家の墓所は狭いながらも生垣に囲まれ、
入口に鳥居があって威厳がありますね。
墓所は谷中霊園乙8号6側。
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