東京都台東区 谷中霊園/酒井玄蕃墓所

鬼玄蕃と恐れられた酒井玄蕃了恒の墓。


故荘内藩大夫酒井君之墓」。
庄内藩第二大隊大隊長酒井玄蕃了恒の墓。
了恒は酒井吉之丞家当主酒井了明の長男で、
長沼流兵学指南秋保政右衛門に学び、
剣術にも長けていたとされていますが、
漢詩を詠んで書を嗜んだ他、
雅楽に通じて笛も吹いたという。
戊辰戦争では第二大隊大隊長となり、
最新兵器と巧みな戦術で連戦連勝を重ね、
新庄秋田方面で鬼玄蕃と恐れられます。
第二大隊は破軍星旗を軍旗として掲げ、
これを見た敵兵は戦意を無くし、
戦わずして逃げたとのこと。
了恒は強いだけでなく温和で慈悲深く、
兵にも慕われていたとされ、
新庄藩での占領政策も寛大なもので、
孤児や窮民を救済したり、
味方の乱暴狼藉や窃盗を厳しく戒め、
敵兵の死骸も手厚く埋葬しました。
新庄で勝利した後は秋田に転戦し、
久保田城に向かって進軍しており、
ここでも破竹の勢いを魅せますが、
米沢藩仙台藩の降伏の報が入り撤退。
撤退戦でも巧みな用兵で犠牲を最小限とし、
見事な撤退を行ったとされます。
庄内藩降伏後は中老として藩政を担い、
廃藩置県後は大泉県大惨事に就任し、
※庄内藩→庄内県大泉県
 後に鶴岡県となっています。
同年には兵部省に出仕。
翌年には肺の病を理由にこれを辞し、
明治7年には密命を受けて清国を調査し、
帰国後に直隷経略論を纏め、
開拓使黒田清隆に提出しました。
翌年より肺病が酷くなったようで、
明治9年に湯島酒井忠宝邸で死去。
墓石は元庄内藩の陸軍将士達が、
献金を集めて建立したもののようです。

墓所は谷中霊園乙1号9側

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