南泉寺は荒川区にある臨済宗妙心寺派寺院。
大愚宗築によって開山され、
大奥の老女岡野の口添えによって、
寺領30石を与えられたとされます。
「南泉寺」。
南泉寺は紫衣地の寺格を持ち、
住職は妙心寺輪番を勤め、
宮中への参内も許されていたという。
墓地には老女岡野の墓がある他、
交代寄合明知遠山家の菩提寺で、
幕末の当主遠山景高の墓が残っており、
同じく仁正寺藩市橋家の菩提寺で、
歴代藩主の墓所となっています。
「市橋家墓所」。
南泉寺墓地は2段に分かれており、
市橋家の墓所は石段を登ってすぐ。
墓所は綺麗にはされていますが、
墓碑の破損が激しいようです。
初代藩主市橋長政の墓は見当たりません。
何らかの理由(空襲や地震)で失われた模様。
「龍源院殿前緫州太守覺潭玄澄大居士」。
2代藩主(3代当主)市橋政信の墓。
初代藩主市橋長政の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
56年の長期に渡り藩主を務め、
82歳で死去しています。
3代市橋信直の墓は清源寺で、
ここにはありません。
4~5代藩主の墓も見当たりませんが、
彼らの墓所もここの筈・・。
「嶺雲院殿徹翁浄閑大居士
水巖院殿太室壽生大姉」。
6代藩主(7代当主)市橋長璉と、
その正室松浦氏の墓。
長璉は臼杵藩8代稲葉菫通の次男で、
5代市橋直挙の養嫡子となって、
直挙の隠居により家督を相続。
27年の治世の後に死去しました。
長璉の墓は清源寺にもあります。
「泰雲院殿前總州大守文翁龍章大居士」。
7代藩主(8代当主)市橋長昭の墓。
6代長璉の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
聡明な藩主であったとされ、
藩校日新館を創設して学問を奨励し、
武術の訓練も推奨しています。
寛政の好学三大名のひとりとされ、
※他の2人は佐伯藩8代毛利高標と、
鳥取西館新田藩5代池田定常。
仁正寺藩中興の英主とも称されました。
29年の藩主在任の後に死去。
8代市橋長發の墓も清源寺。
「性善院殿前殿中監圓山道覺大居士」。
9代藩主(10代当主)市橋長富の墓。
庄内藩7代酒井忠徳の四男に生まれ、
8代長發の死去に伴い末期養子となり、
家督を相続しています。
砲術家高島秋帆が仁正寺藩預かりとなると、
藩士らにその教えを請わせており、
以降は砲術に長けた藩となりました。
22年の治世の後に隠居し、
15年の隠居生活の後に死去。
「正五位市橋長義墓」。
10代藩主(11代当主)市橋長義(長和)の墓。
庄内藩8代酒井忠器の四男に生まれ、
9代長富の養子となり、
長冨の隠居により家督を相続しました。
高島秋帆の教えにより国防意識が高く、
ペリー来航以降は軍備増強を図り、
海岸防備や洛中警備に藩兵を派遣。
文久2年には藩名を西大路藩に改称し、
新政府が樹立するといち早く支持しており、
鳥羽伏見の戦いでは四塚関門守備を担当。
戊辰戦争では主に輜重の任を命じられ、
白河や会津に従軍しています。
廃藩置県後は東京に移住し、
明治15年に死去しました。
「正五位子爵市橋長壽墓」。
市橋子爵家初代(12代当主)市橋長壽の墓。
10代長義の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
明治17年に子爵となっていますが、
大火によって家財を失って没落しており、
明治28年に29歳の若さで死去しました。
跡を継いだ次男市川虎雄は、
3歳で子爵となっていますが、
没落した家を再興する事は出来ず、
失踪してしまったとされます。
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