東京都台東区 上野恩賜公園(再訪)

上野恩賜公園を訪問したのは5年前。
丁度花見の季節だった為、
訪問時の公園は人、人、人でした。
当時はボロカメラでしたので、
※今もそれ程良いものでは無い。
記事内の写真は酷いもの。
今回の東京訪問で公園を通り抜けたので、
ついでに幾つか撮影しましたので、
再訪のカタチで記事にしたいと思います。


西郷隆盛像」。
仏師で彫刻家の高村光雲の作で、
傍らの犬は後藤貞行の作。
明治22年に大日本帝国憲法が発布され、
これに伴う大赦によって、
西郷の逆徒の汚名が解かれた為、
薩摩藩出身者が中心となって計画され、
宮内省の下賜と全国有志の寄付で、
明治31年に除幕されました。


戦死之墓(彰義隊戦死之墓)」。
上野戦争終結後の上野には、
200体を越える遺体が散乱したとされ、
これを円通寺仏麿和尚や、
寛永寺御用商三河屋幸三郎等が、
遺体を集めて荼毘に付し、
円通寺に埋葬したとされます。
官軍が遺体を捨て置いたという俗説は、
疫病発生の観点からそれはあり得ず、
確実に焼却したとは思われますが、
それを供養させたかどうかは別。
基本的に罪を負って死んだ者は、
表立っての供養は憚られるので、
遺族が姓を名乗るのも憚られます。
勿論これは表立っての事で、
遺族や有志が密かに供養するのも普通。
彰義隊のケースも寛永寺子院の寒末松院と、
護国院の住職が密かに供養し、
人に見られぬよう墓碑を埋めています。
明治7年になって元隊士小川興郷らが、
墓碑の建立を願って許され、
唐銅製の立派な墓が建てられますが、
資金に似合わず立派な過ぎるものだった為、
支払いが出来ずに撤去されたという。
そして明治14年に現在の墓碑が再建。
墓碑銘の戦死之墓は山岡鉄舟の揮毫で、
その前面には子院が埋めた墓碑が建てられ、
現在に至っています。


天海僧正毛髪塔」。
南光坊天海の遺髪墓。
前回の記事でも触れましたが、
坊さんなのに毛髪があったのか?
まあ1日剃らなかったら毛髪なんて、
すぐ生えるでしょうから、
束にされた普通の遺髪のイメージではなく、
短い毛を集めたものかもですね。
そもそも徳川家菩提寺の寛永寺は、
天海が開山したもの。

今回は通り抜けるついでに幾つか撮影し、
再訪として記事としていますが、
未だ上野動物園にある藤堂家墓所や、
※非公開。少し見えるらしい。
 パンダもいるので家族を連れて来たい。

上野東照宮には訪問しておらず、
また公園内ではありませんが、
荒川区の円通寺にも未訪問です。
それ程行ける機会のない東京ですが、
またいつか訪問せねばなりません。

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 初めて訪問した際の記事。

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