千葉県木更津市 真武根陣屋跡

請西藩藩主自ら脱藩して新政府に抵抗し、
戊辰戦争唯一改易となった藩。
藩主林忠崇の行動で新政府の怒りを買い、
改易という重い処分が下されていますが
藩主が国許から離れて抵抗した例は、
桑名藩備中松山藩等数例あり、
これらは改易処分となっていません。
請西藩が改易となったのは、
1万石の小藩だったからでしょう。

藩主の林家は三河松平家の譜代家臣で、
江戸後期まで3000石の旗本でしたが、
16代林忠英が将軍徳川家斉に寵愛され、
加増を受けて1万石で諸侯に列した家。
当初は貝淵に藩庁が置かれており、
以降も加増で1万8000石となりますが、
家斉死去後に水野忠邦の粛正を受け、
8000石を減封されています。

上記の様に藩庁は貝淵に置かれましたが、
次代林忠旭は藩庁を請西村に移転。
真武根(真船)という台地に陣屋を設けました。

真武根陣屋遺址」。
石碑や説明板が設置されています。
本来であれば請西陣屋と称される筈ですが、
陣屋は真武根陣屋と名付けられており、
一般的に請西陣屋とは呼ばれません。
これは長州藩指月城や、
薩摩藩鶴丸城と同じ感覚ですね。


石碑や説明板の奥は広い空地。
ここに建物や蔵が建てられていたという。
出来る事なら住宅等が建てられる事なく、
そのままにしておいて欲しいところ。

最後の藩主林忠崇は新政府の方針に反対し、
藩士約70名と共に遊撃隊に参加。
真武根陣屋を自焼させており、
その際自由に行動出来るように脱藩した為、
この行為を重く見た新政府により、
請西藩林家は改易処分とされます。
忠崇ら元請西藩士らは遊撃隊と共に、
箱根伊豆等で新政府軍と交戦。
奥州へも転戦して仙台に達しますが、
仙台藩は新政府軍に降伏してしまった為、
新政府軍に降伏しました。

その後の忠崇は謹慎処分を受け、
放免後は困窮した生活を送り、
仕事を転々としていたようですが、
旧藩士による家名復興運動が認められ、
甥で林家を継いだ林忠弘男爵を授爵。
忠崇も復籍して華族となり、
宮内省出仕を経て日光東照宮の神職を務め、
晩年は次女ミツの嫁ぎ先に同居しており、
昭和16年に死去しました。
昭和初期まで生きた最後の大名とされます。

貝淵藩→請西藩
藩庁:貝淵陣屋→真武根陣屋
藩主家:三河林家
分類:1万石、譜代大名

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