青松寺は東京都港区愛宕にある曹洞宗寺院。
江戸曹洞宗を司った江戸三箇寺のひとつで、
※残り二寺は總泉寺、泉岳寺。
太田道灌によって貝塚(現麹町)に創建され、
慶長5年(1600)に現在地に移転しました。
「山門」。
四天王の設置された巨大な山門。
東側に増長天と広目天、
西側に多聞天と持国天が守ります。
阿行吽形は山門でよく見ますが、
四天王の守る山門は珍しい。
「中雀門」と「本堂」。
立派な中雀門の奥にある本堂。
時間内なら勝手に扉を開けて、
中に入ってお参り出来るようですが、
今回は時間の関係で外よりお参り。
本堂裏手の高台に青松寺墓地がありますが、
基本的には檀家さんのみしか入れません。
「林家之墓」。
林家の累代墓。
徳川家譜代家臣林家9代林忠隆より、
10代林忠和、11代林忠勝、
12代林忠久、13代林忠篤、
14代(貝淵藩初代)林忠英、
15代(貝淵藩2代/請西藩初代)林忠旭、
16代(請西藩2代)林忠交、
17代(請西藩3代)林忠崇、18代林忠弘、
19代林忠一とその室らの墓ですが、
残念ながら碑銘がありません。
林家は室町初期より松平家に仕えた譜代。
江戸時代も旗本3000石として代々仕えた後、
14代忠英が将軍徳川家斉の寵愛を受け、
何度も加増されて1万8000石となり、
諸候に列して大名となっています。
家斉の死後は8000石を召し上げられ、
強制的に隠居させられますが、
大名の地位はなんとか維持。
次代忠旭が請西に陣屋を移した後、
16代忠交の代で幕末を迎えました。
忠交は安政6年より伏見奉行を務めており、
寺田屋での坂本龍馬襲撃も彼の指揮下。
慶応3年に在任中に死去してしまい、
代わって甥の忠崇が17代藩主に就任。
血気盛んな忠崇は幕府に殉じる事を決め、
同志である70名の藩士らと脱藩します。
忠崇らは伊庭八郎らの遊撃隊に合流し、
戊辰戦争で各地を転戦した後に、
仙台藩の降伏を受けて新政府軍に降伏。
藩主自ら脱藩して反抗した罪を問われ、
戊辰戦争での唯一の改易処分となりました。
林家は僅か300石で忠交の子忠弘が継ぎ、
生活が困窮する程であったようですが、
後の明治26年に爵位が与えられています。
この墓は忠弘の子忠一が建立したもので、
忠一は弁護士を経て貴族院議員となり、
その廃止まで在籍していました。
最後の藩主忠崇は94歳まで存命し、
昭和16年に死去しており、
最後まで存命した大名と称されています。
墓地には追哀墳という碑がある筈ですが、
見つける事が出来ませんでした。
元請西藩士戦死者16名の名と、
忠崇の句が刻まれているとのこと。
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16代忠交が勤めた伏見奉行所。