寛永7年(1630)に3代将軍徳川家光は、
上野忍岡5000坪の土地を林羅山に与え、
書院と聖廟を建てさせていますが、
これを羅山が家塾としています。
元禄3年(1663)には5代将軍徳川綱吉は、
神田湯島6000坪の土地を林家に与えて、
聖廟を建てさせて家塾も移転。
同地は孔子生誕地の昌平郷にちなみ、
昌平坂と称されるようになり、
綱吉は林家に大学頭の官職を与えました。
後に朱子学が奨励されるようになると、
寛政期に家塾が幕府直轄機関となり、
昌平坂学問所が設立。
幕臣とその子弟の学問吟味が行われますが、
やがて陪臣や浪人、庶民にも門戸が広がり、
当時最高峰の学問機関となっています。
「昌平坂学問所跡」。
現在の昌平坂学問所跡は、
東京医科歯科大学湯島キャンパスの敷地。
昌平坂学問所の正式名称は学問所で、
他に昌平黌とも称されていました。
小学、四書、五経、歴史、策問の試験があり、
学問吟味や素読吟味を行っていたようです。
出身者は綺羅星の如くで、
幕末においてだけでも、
榎本武揚、佐久間象山、枝吉神陽、
秋月悌次郎、清河八郎、松本奎堂、
永井尚志、岩瀬忠震、栗本鋤雲、
江川太郎左衛門等々。
高杉晋作も昌平黌で学んでおり、
大野又七郎という友人を得ています。
学校は学ぶ事も大切ですが、
掛け替えのない友人をつくるのも、
重要な要素ではありますね。
昌平坂学問所は維新後に昌平学校となり、
儒学よりも国学や神道学に重きが置かれ、
従来の儒学者と国学者の対立の末、
明治3年に休校を経て閉鎖されました。
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