麟祥院にある嵯峨実愛の墓所。
幕末期には正親町三条実愛と称し、
薩摩藩に近い立場の公卿でした。
「従一位勲一等嵯峨實愛墓(中央)」、
「正二位訓二等侯爵嵯峨公勝之墓(右)」、
「嵯峨三郎麿之墓(左)」。
正親町三条家当主28代嵯峨実愛の墓、
29代当主嵯峨公勝夫妻の墓、嵯峨三郎麿の墓。
実愛は27代当主正親町三条実義の子で、
通商条約締結に反対した廷臣八十八卿の一人。
文久2年に国事御用掛に就任し、
薩摩藩を支持して公武合体を推進しますが、
尊攘派から敵視されて失脚。
八月十八日の政変の後に復帰し、
薩摩藩寄りの公卿として討幕運動を進め、
討幕の密勅を薩摩藩に伝達しました。
新政府が発足すると議定となり、
刑部卿、内国事務総督、教部卿等を歴任。
明治3年に長い家名が不便であると、
正親町三条をから嵯峨に改姓しています。
明治16年に滋宮韶子内親王と、
明宮嘉仁親王の御用掛を拝命。
明治42年に90歳で死去しました。
公勝は実愛の次男に生まれ、
明治14年に隠居した父より家督を相続。
明治23年に貴族院議員となりますが、
無報酬の為に出席率が低かったという。
妻の南加子は中山忠光の娘で、
孫の嵯峨浩は愛新覚羅溥傑に嫁いでいます。
三郎麿という人物はよくわかりませんが、
たぶん早世した実愛か公勝の子かな?
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溥傑と浩を祀る中山神社の境内社。
・東京都文京区 麟祥院/嵯峨実愛墓所
延臣八十八卿正親町三条実愛の墓所。