東京都中央区 伝馬町獄舎跡

伝馬町獄舎は罪を犯した囚人達を、
集めて収容した施設で、
2618坪の敷地の周囲にが巡らされ、
その内を煉塀で囲んでいたという。
牢獄は東牢西牢に分かれており、
東牢の大牢二間牢には、
人別帳に記載のある庶民を収容し、
西牢の大牢と二間牢には、
無宿者が収容されたとされ、
双方には揚屋という少しマシ牢があって、
御家人諸藩士僧侶等を収容。
更に揚屋敷と呼ばれる特別房があり、
身分の高い者を収容していました。


十思公園(伝馬町牢屋敷跡)」。
伝馬町獄舎があったのは小伝馬町3~5丁目
十思公園周辺は東牢や揚屋敷があった辺り。
ちなみに公園の道路側は切腹場だったらしい。


松陰先生終焉之地碑(右)」、
松陰辞世之句碑(中央)」、
吉田松陰先生累歴碑(左)」。
公園内にある吉田松陰関連の石碑。
中央の碑には松陰の辞世が刻まれています。
 身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
  留置まし大和魂

松陰は梅田雲浜との関係を吟味する為、
幕府より江戸に召還されますが、
評定所間部詮勝要撃策を自白してしまい、
伝馬町獄舎に収監されました。
松陰の収監されたのは西牢の奥揚屋で、
現在の十思スクエアの北側あたり。
松陰は獄舎で永訣書留魂録を書き上げ、
安政6年10月27日に斬首。
また同時期に橋本佐内頼三樹三郎
飯泉喜内鵜飼吉左衛門親子、
茅根伊予之介、梅田雲浜、藤井尚弼など、
安政の大獄で罷業の死を遂げる志士らも、
ここに収監されていたようです。


牢屋敷の石垣」。
発掘調査で見つかった牢屋敷の石垣。
十思スクエア横に積まれており、
子供が乗って遊んでいました。


大安楽寺」。
十思公園の向かいにある高野山真言宗の寺院。
境内は伝馬町獄舎の跡地です。
伝馬町獄舎は明治8年に廃止され、
その機能は市ヶ谷に移転しますが、
跡地は監獄や処刑場に使われたもので、
忌み嫌われていたという。
その地に五大山不動院の住職山科俊海が、
大倉喜八郎と安田善次郎の寄進を受け、
大安楽寺を創建しています。
※寺名は大倉の大と安田の安に由来。
境内地は丁度処刑場のあった辺り。


江戸伝馬町処刑場跡」。
大安寺の塀に建てられている跡碑。
上記したように境内地は処刑場の跡で、
松陰らはこの敷地内で斬首されたようです。

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 松陰が最初に埋葬された場所。
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