和歌山県紀の川市 粉河寺

粉河寺粉河観音宗の総本山で、
かつては天台宗に属した大寺院でした。

宝亀元年(770)に猟師の大伴孔子古が、
山中に光を発する場所を見つけ、
そこに小庵を営んだとされ、
ある日その庵に童男が訪ねて来て、
一晩泊めると宿のお礼にと、
7日掛けて千手観音像を彫ったという。
8日目には童男の姿はなく、
金色の千手観音像だけがあったという。

時は移り河内の長者佐太夫の娘は、
重い病で明日をも知れぬ命でしたが、
そこへ突然童行者が現れて、
千手千眼陀羅尼を称えて祈祷すると、
娘の病は全快しました。
喜んだ長者が財宝を差し出しますが、
童行者は娘の提鞘緋の袴だけ受け取り、
那賀郡粉河の者と言って立ち去ります。
後に長者一家が那賀郡を尋ねると、
米のとぎ汁のような白い小川を見つけ、
これが粉河であると確信した一家は、
小川を遡って小さな庵を発見。
その中に千手観音像が置かれており、
娘の提鞘と緋の袴を持っていたという。

創建時期については不明ながら、
上記の2つの説話が草創とされています。
平安時代には朝廷貴族の保護を得て、
鎌倉時代には天台宗に属し、
根来寺金剛峯寺と比肩する大寺院として、
多くの子院も持って隆盛。
しかし豊臣秀吉紀州征伐では、
根来寺や雑賀衆と共にこれに抵抗し、
全山消失してしまいました。
後に紀州藩によって再建されますが、
正徳3年(1713)に大火で殆どを焼失し、
その後も紀州藩の寄進で再建。
大東亜戦争後に天台宗から独立し、
粉河観音宗の総本山となっています。


大門(仁王門)」。
入母屋造本瓦葺き朱塗り楼門で、
宝永4年(1707)に再建されたもので、
正徳3年の焼失を免れた貴重な建物です。
国指定重要文化財


参道は粉河(川)を沿って伸びており、
左側に諸坊が立ち並んでいます。


童男堂」。
延宝7年(1679)建立。
千手観音の化身である童男大士を祀ります。
草創に関わる重要な建物のようで、
数度の増築や改修がされていとのこと。
隣にある出現池より童男が、
柳の枝を手に白馬に乗って現れたという。

この参道沿いには他に羅漢堂本坊
念仏堂露座仏太子堂等があります。


中門」。
入母屋造本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。
明和年間(1764-1772)より建てられ、
天保3年(1832)に完成したとのこと。
風猛山の扁額は紀州藩10代徳川治宝の筆。
国指定重要文化財。


粉河寺庭園」。
巨石のみで構成された枯山水
上田宗箇による作庭とされます。
国指定名勝


本堂」。
享保5年(1720)再建の本堂。
本尊千手観音像絶対秘仏とされ、
しかもお前立ちの像まで秘仏であり、
全く公開はされないという。
本尊は火災での焼失を避ける為、
本堂の地下に埋められているとのこと。
国指定重要文化財。


千手堂」。
本堂の左にある千手堂
宝暦10年(1760)の建立で、
こちらの千手観音立像も秘仏。
紀州藩の歴代藩主や、
そのゆかりの人々の位牌を安置しています。


粉河産土神社」。
本堂の後方にある神社で、 
元々は粉河寺の鎮守社だった神社。
神仏分離によって独立しています。
祭神は丹生都姫命天忍穂耳命

幕末の大和絵の絵師冷泉為恭は、
京都所司代であった酒井忠義に接近し、
小浜藩12代及び14代藩主。
忠義の所有する伴大納言絵詞を閲覧。
これを模写していますが、
その行為が尊攘派の疑心を招き、
執拗に命を狙われる事となっています。
文久2年に為恭は粉河寺へ逃れ、
当時の住職願海に匿われており、
心蓮と称して9ヶ月潜伏しました。
その後も為恭は逃亡を続け、
を経て大和国丹波市に潜伏しますが、
元治元年5月に大楽源太郎らに発見され、
殺害されています。

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 新義真言宗の総本山。
和歌山県和歌山市 和歌山城
 粉河寺は紀州藩より庇護を得ていました。

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