昭和27年から37年にかけて、
宮之城町で融和事業及び失業対策事業、
並びに都市計画事業等が計画され、
これに基づいて墓地の整理が行われて、
前岡墓地、秋葉墓地、大道寺墓地、
西ヶ迫墓地、城之口墓地等の発掘及び、
墓碑の移転がなされました。
これらは東谷墓地に移転されています。
「東谷墓地無縁仏墓碑」。
整理された無縁仏には合葬碑が建立され、
他に名のある人物の墓碑が移転され、
東谷墓地の一角に集められています。
「内藤智道霊」。
警視庁三棟巡査内藤智道の墓。
内藤は新潟県の出身で、
西南戦争の際は別働第三旅団に所属し、
各地を転戦して生還。
後に宮之城警視分署詰めの巡査となり、
治安維持に従事しましたが、
コレラの予防活動に奔走した際、
不幸にも自らも感染してしまい、
31歳で殉職しています。
地元住民は献身的であった内藤を尊敬し、
巡査どんの墓として城之口墓地に埋葬。
昭和37年の墓地整理で、
この東谷墓地に改葬されました。
「長沼熊太郎之墓」。
長沼熊太郎は盛岡出身の太政官で、
政府首脳の征韓論争を目撃し、
征韓論破裂始末の論文を草稿しました。
後に和泉邦彦、宇都宮平一らに招かれ、
盈進校で教鞭を振るい、
多くの若者から敬慕されますが、
明治18年に34歳で病死。
教え子達によって城之口墓地に葬られ、
内藤の墓と共に改葬さています。
「伏見春子之墓」。
伏見春子は水戸伏見家の出身で、
屋地の川越享の妻となりました。
敬虔なキリスト教信者で、
幼い頃から教育熱心な家庭に育ち、
教養のある女性であったという。
明治26年に37歳で病死しており、
その墓石は珍しい箱型の寝棺。
県内では大変貴重な墓石である為、
ここに改葬されたようです。
「時吉萬次郎翁」碑。
時吉萬次郎は被差別部落の念仏者で、
一向宗弾圧が過激さを増す時期に、
隠れ念仏の共同体を作り上げた人物。
こちらは他と違い墓石はなく碑のみ。
無縁仏と共に合葬されているのでしょう。
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西南戦争で戦死した官軍将兵の墓地。