下関中央霊園の白石家之墓の傍らに、
白石廉太郎なる人物の墓石があります。
「白石廉太郎墓」。
廉太郎という名が気になり調べてみると、
なんと白石廉作の忘れ形見でした。
廉作は白石正一郎の末弟で、
兄の影響からか尊攘運動に参加し、
奇兵隊が設立されると兄と共に入隊します。
しかし平野国臣が生野挙兵を画策すると、
澤宣嘉を擁して河上弥市らと脱走。
生野の変を起こして農兵を募りましたが、
これに対する幕府の反応は早く、
出石藩や姫路藩が出動した為、
募集された農兵らは騙されたと怒り、
彼らを取り囲んで攻めたてた為に
河上らと共に自刃してしまいました。
廉太郎はその廉作の忘れ形見で、
正一郎の子白石東一が養子としますが、
物事を長く続けられない人物だったようで、
正一郎の晩年の悩みの種だったという。
明治9年頃に突然白石家を出奔すると、
出仕していた伯父大庭伝七を頼り、
大阪に突如現れます。
この時は説得されたのか戻って来ますが、
翌年には印刷技術を習得したいと、
白石家の許可を得て再び大阪へ。
しかし1年も経たずに修行を放り出し、
再び白石家に帰って来ると、
広井良図の私塾柳渓精舎に入門。
後に所帯を持って区役所で働きますが、
またもや突如として出奔してしまいました。
後に筑前国御笠郡にいる事が判明し、
そこの小学校で働いでいたようですが、
正一郎が病の床に付いた知らせにも、
帰って来ることはなかったという。
戻って来たのは正一郎の死の数年後で、
無頼と付き合うようになっており、
定職に付かず放浪を繰り返しています。
嫁さんも愛想が尽きて実家へ帰り、
晩年は隔離されて49歳で死去。
酷いロクデナシのようですが、
暴力を振るう事はなかったとのこと。
周りは迷惑していたと思いますが、
放浪癖は何か思う事があったのか?
実父も同じく出奔して散っており、
志篤く国事に殉じています。
向かう方向も定まらぬ世の中で、
苦悩していたのかもしれませんね。
■関連記事■
・下関市吉田 東行庵/白石廉作の墓
東行庵にある白石廉作の墓。
・兵庫県朝来市 山口護国神社
白石廉作や河上弥市の自刃した地。
・下関市細江町 光明寺
柳渓精舎は光明寺にありました。