下関市細江町 光明寺

光明寺は延徳年間(1489-1492)に、
真宗本願寺派8世蓮如上人の弟子釈正善が、
西市に御堂を建立した事に始まるとされ、
その後は内日幡生へと移転して、
享保17年(1732)に現在地に移転したという。


光明寺」。
大東亜戦争での下関市の戦争被害は、
中国地方では広島に次ぐ規模だったようで、
B29及びB24焼夷弾攻撃で、
多くの建物や人々が被害に遭いました。
しかしながら奇跡的に光明寺は焼失を免れ、
現在も本堂書院は当時のままです。


本堂」。
文久3年5月10日に攘夷期限が定められ、
勅令が発せられたことにより、
久坂玄瑞は同士ら30余人を率いて、
4月27日に来関しています。
久坂は白石正一郎に宿所の斡旋を依頼し、
長泉寺に5月4日まで滞在。
それから光明寺に移って本陣としました。
彼らは光明寺党と呼ばれ、
当時下関に滞在していた中山忠光を首領とし、
別動隊として攘夷戦に参加します。
米国商船ペンブローク号への攻撃では、
躊躇する総奉行毛利元美の下知を待たず、
亀山砲台庚申丸発亥丸で砲撃を行い、
攘夷の第一撃を行いました。
当時この本堂前の石段下には、
癸亥丸の艦首像の首が置かれていたようで、
党員の出入りの際には必ずこれを蹴り、
キリシタン踏絵のような事をしていたという。


廣井良図顕彰碑」。
本堂前にある広井良図の顕彰碑。
広井良図は清末藩藩士広井良弼の子に生まれ、
儒者で祖父の広井良徳の薫陶を受けます。
幼少時より明敏で長州藩藩校明倫館に学び、
14歳で明倫館の舎長となっており、
修学を終えて帰藩してからは、
祖父の私塾柳渓精舎で子弟教育に当たりました。
元治元年には藩命で江戸に出ていますが、
京都での変事のあおりを受けて幕府に捕縛され、
約2年間収監された後に放免。
帰藩後は清末藩校育英館舎頭を務め、
明治維新後は権大参事に就任しています。
廃藩置県後は小月小学校初代校長となり、
一年の在任後に光明寺に私塾硯湾学舎を開設。
明治10年からは赤間関市庁に出仕し、
教育行政に尽しており、
その後は県下の各中学校で教鞭を振るい、
晩年は漢学塾を開き余生を過ごしたという。
この碑は教え子らによって建立されたもの。

光明寺党は尊攘志士らの結社であり、
アマチュアの域を出ないものでしたが、
後に高杉晋作奇兵隊を設立して、
光明寺党の多くがこれに参加。
プロの軍事組織へと進化し、
明治維新の原動力のひとつとなります。
その礎である光明寺党の本陣の光明寺が、
現在も当時の姿で残っている事は、
とても素晴らしい事ですね。

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