奇兵隊顕彰墓地にある白石廉作の墓碑。
白石廉作は白石正一郎の弟(六男)で、
恒遠醒窓の漢学私塾蔵春園に学び、
文を能くし筆札に巧みであったという。
兄を手伝って薩摩藩等との貿易に奔走し、
その過程で尊攘志士らと親交したようで、
奇兵隊が設立されると兄と共に入隊します。
平野国臣とは何度も会っており、
彼が天誅組に呼応し生野挙兵を画策すると、
澤宣嘉を擁して河上弥市らと脱走。
生野の手前の延応寺に本陣を構えますが、
天誅組の壊滅の報がもたらされ、
挙兵中止も議論されますが強行に至り、
生野代官所を無血で占領しました。
そして周辺の村々に募兵を呼びかけ、
これに答えて2000人程の農兵が参集。
しかしこれに対する幕府の反応は早く、
出石藩や姫路藩が出動しており、
これに対応すべく廉作は河上らと共に、
生野の北側の妙見山に布陣しますが、
騙されたと怒った農兵達に取り囲まれ、
山麗の山伏岩で河上らと共に自刃しました。
「白石廉作之墓」。
彼らが自刃した地に合同墓碑がありますが、
長らく個人の墓は建てられておらず、
※桜山神社にはあります。
この墓は恒遠醒窓顕彰会により、
平成19年に建立されたものです。
廉作は三田尻から生野に向かう際、
兄の正一郎に手紙を出していますが、
その中には自分の持物についてや、
貸し借りの始末についてのみ記され、
取り急ぎ書いた感が伝わると共に、
その律儀さが感じられます。
正一郎は廉作の死を約1ヶ月後(11/10)に、
久留米藩の渕上郁太郎に聞かされたようで、
翌日には三田尻社の荒瀬河内の所へ行き、
廉作の神霊を祀っています。
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白石廉作らが自刃した場所。
・下関市竹崎町 白石正一郎旧宅跡
廉作が生まれ育った小倉屋の跡地。