大田絵堂の戦いで勝利した諸隊勢は、
美東から山口へ本拠を移転。
一部を佐々並に進撃させており、
藩政府軍は明木に退却しました。
萩では中立派が鎮静会議員を結成し、
内訌を止めようと画策し、
和平交渉の使者を選出しています。
選ばれたのは香川半介、桜井三木三、
冷泉五郎、江木清治郎の4名で、
山口を訪問して諸隊幹部と会談し、
藩主毛利敬親の意向を伝えると共に、
萩城下へ攻め入らないよう交渉しました。
この和平交渉は藩政府軍と事前協議をせず、
鎮静会議員の独断で行われた為、
これに反対する藩政府軍の者達が、
明木の権現原で待ち伏せてこれを襲撃。
香川、桜井、冷泉の3人を殺害し、
江木に深手を負わせています。
傷を負いながら江木は逃げ仰せたようで、
笛吹、洗い谷、惣田、河内、大屋を通って、
命からがら萩に帰り着いという。
訪問時は3月ながらなんと雪景色!
調べると明木は標高305mとのことで、
山間部である事を思い出させます。
「三士殉難地」。
旧萩往還は川に沿っていたようで、
刺客はこの辺りにあった土橋に隠れ、
山口から帰還する4人を襲いました。
「地蔵半跏像(権現原の地蔵)」。
殉難三士を供養する為に建立されたとも、
明木川を鎮める為に建立されたともされます。
現場から離れて県道32号線沿いへ。
明木からの合流点辺りに山手へ入ると、
そこに三士を鎮魂する碑があります。
「殉難武士之碑」。
大正3年に建立された碑で、
明木の青年会によって建てられたもの。
事件の後に正義派政権が樹立。
4人を襲った刺客は中井栄二郎、
木村松之丞、小倉半右衛門、児玉久吉郎、
南新三郎、小川八十槌、冷泉太郎兵衛で、
彼らは捕らえられて野山獄へ送られ、
全員が切腹させられました。
ひとり生き残った江木清治郎。
維新後に各県の参事を務めた江木康直は、
江戸期は清二郎を名乗ったとされており、
二人は同一人物かもしれませんが、
真相は定かではないようです。
■関連記事■
・山口県萩市 東光寺/四大夫十一烈士墓所
殉難三士の招魂墓があります。
・山口県萩市 明木宿跡
権現原近くにあった明木宿。