慶応2年8月1日。
長州藩との戦いで不利となった小倉藩は、
小倉城を自焼させ香春に撤退しました。
家老島村志津摩は藩兵を再編し、
金辺峠と狸山に防衛拠点を置いて、
勢いに乗る長州藩兵を迎撃。
金辺峠は総司令官である島村が守り、
狸山には同じく家老の小宮民部を配置し、
別動隊も編制して遊撃戦を展開します。
今までは長州藩の防衛戦争でしたが、
城を自焼させた小倉藩は窮地に立たされ、
逆転して小倉藩の防衛戦争となっており、
士気は高く藩兵は大いに奮戦。
長州藩事実的な指揮官である高杉晋作も、
既に病に倒れて離脱しており、
長州藩は苦戦を強いられました。
開発が進み狸山周辺の地形は変わっており、
その面影は全く見られませんが、
現地にある須佐神社の境内に、
戦場であった事を伝える碑があります。
「須佐神社」。
小倉南区朽網東5丁目にある神社。
縁起の刻まれた石碑がありますが、
草書体で殆ど理解出来ません。
安政5年7月頃より鎮座しているらしい。
「狸山古戦場跡」。
かつて2つの狸山の戦いがあったようです。
一つ目は応永5年の大友家と大内家の戦いで、
二つ目が慶応2年の小倉戦争での戦い。
狸山に布陣した小倉藩兵は、
慶応2年8月10日午後、
下曽根に駐屯する長州藩兵に攻撃。
長州藩はこれを迎え撃ち、
小倉藩兵を狸山まで後退させます。
翌11日に長州藩は狸山へ進軍し、
小倉藩兵を攻撃。
激しい銃撃を散兵戦術で突破し、
狸山の麓まで辿り着きますが、
小倉藩の別動隊が下曽根に火を放ち、
兵糧等を焼き払った為、
長州藩兵は葛原まで退却しました。
8月17日に長州藩兵は再び狸山を攻撃。
狸山の小倉藩兵も散兵して砲撃した為、
長州藩兵はたまらず後退します。
翌18日には小倉藩兵が追撃を掛け、
山手、街道、海手の三方から攻撃し、
一時長州藩兵を追い立てますが、
迎撃されて狸山まで後退しました。
以後は9月末まで小競り合いが続き、
10月頃には双方止戦への動きが取られ、
翌年1月23日に和議が成立。
狸山は落とされる事なく、
小倉戦争は終結しています。
■関連記事■
・福岡県田川郡 金辺峠(再訪)
もうひとつの防衛拠点。
・福岡県田川郡 御茶屋香春藩庁跡
仮藩庁となった香春の御茶屋跡。
・福岡県北九州市 小倉城
小倉藩小笠原宗家の居城跡。