島津宗家歴代墓所である福昌寺跡に、
薩摩藩の官僚調所広郷の墓があります。
「全機院殿敷績顕功大居士」。
薩摩藩士調所広郷の墓。
城下士小姓組川崎主右衛門の次男で、
同組の調所清悦の養子となります。
調所家は代々茶道坊主であったとされ、
家督を継ぐと表茶道坊主となり、
鹿児島で8年間これを務めました。
その後は江戸藩邸詰めとなり、
隠居の前藩主島津重豪に気に入られ、
隠居付奥茶道坊主として勤務。
後に世子島津斉興付の茶道坊主となり、
斉興の藩主就任後は、
重豪がその後見となっています。
調所は両隠居続料掛に任じられ、
前藩主、前々藩主の隠居料調達を行い、
長崎商法の拡大で利益を上げました。
これを評価された調所は側用人となり、
薩摩藩の財政再建を命じられ、
定免法の徹底、奄美黒糖の品質向上、
その流通方法の改善、
藩債500万両を250年賦とする等、
強引に改革を成功させて成果を挙げ、
蓄えが出来るまでに財政は回復。
しかし斉興の後継問題では、
側室の子島津久光を推した為に、
島津斉彬派の憎悪の対象となり、
藩の密貿易を主導していると密告され、
老中阿部正弘らにこれを糾問された為、
服毒自殺を謀って責任を負いました。
長州藩の村田清風しかり、
薩摩藩が維新の雄藩たり得た理由は、
藩の財力も大きな理由です。
調所が居なければ薩摩藩は火の車で、
中央での政治力を発揮する事も、
討幕への軍事力を発揮する事も、
考えられなかったでしょう。
調所の改革無しでは後の斉彬や久光、
西郷隆盛、大久保利通の活躍な無く、
維新も遅れていたかもしれませんね。
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