鹿児島県鹿児島市 福昌寺跡/お由羅の墓

福昌寺跡の10代藩主島津斉興の墓の傍らに、
側室お由羅の方の墓があります。


妙淨覺忍大禪定女尼」。
お由羅の方の墓。
江戸大工の娘、八百屋の娘、
舟宿の娘など出自には諸説ありますが、
江戸の薩摩藩邸で奉公していたとされ、
斉興に見初められて側室となっています。
智姫(斉興三女:夭折)、島津久光(斉興五男)、
島津唯七郎(斉興七男:夭折)を産んでおり、
斉興の成人した男子を産んだのは、
正室の弥姫以外にはお由羅のみでした。
その弥姫が死去すると正室同様に扱われ、
嫡子の島津斉彬が居るにもかかわらず、
実子久光の藩主就任を願うようになり、
その擁立と斉彬の廃嫡を計画。
斉彬が前藩主島津重豪に可愛がられ、
重豪の浪費癖蘭癖の継承を疑い、
斉興は家督を譲るのを躊躇しており、
この為に御家騒動(お由羅騒動)が発生。
斉彬の藩主就任を願う派閥は、
久光派の重鎮である調所広郷を失脚させ、
服毒自殺に追い込むなどしており、
お由羅も斉彬とその子女を呪い、
呪詛の儀式を行っていたとされ、
それ故が斉彬の子女が早逝しています。
そして斉彬派の武力行使が囁かれると、
斉興は機先を制するように弾圧を開始。
斉彬派は尽く捕縛されており、
切腹、蟄居謹慎、遠島等となりました。
この事態に他藩や幕府も介入する事となり、
最終的に将軍徳川家慶が斉興に茶器を下賜。
※暗に隠居を命じる意味。
ついに斉興は隠居して家督を譲り、
斉彬が11代藩主となっています。
久光の子島津忠義が養嫡子に迎えられ、
お由羅の孫が継嗣となっており、
斉彬が死去した後に忠義が藩主に就任。
斉興が幼い藩主の後見となりますが、
翌年に斉興は病死しており、
お由羅の方は落飾して鹿児島で暮らし、
慶応2年に死去しています。

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