剣豪宮本武蔵は晩年熊本藩に迎えられ、
熊本城東部に屋敷を与えられており、
その余生を過ごしています。
熊本藩初代藩主細川忠利は武蔵に対し、
破格の待遇を与えていたようで、
鷹狩りも許可されていたという。
2代藩主細川光尚も同様に接したとされ、
悠々自適な生活をしていたようですが、
やがて金峰山の霊巌洞に籠るようになり、
そこで五輪書を完成させており、
他にも書画や工芸の制作も行いました。
宮本武蔵の墓所は武蔵塚公園にあり、
周辺が公園として整備されています。
「武蔵」像。
武蔵塚公園にある宮本武蔵の銅像。
武蔵といえば二天一流の剣術ですが、
これは武蔵の父新免一真の当理流(無二流)を、
武蔵が大きく発展させたもの。
始めは円明流と名付けられましたが、
五輪書で二刀一流及び二天一流と称し、
最終的に二天一流となったという。
大小を構えた肖像画を元にしています。
「新免武蔵居士乃塔」。
公園内にある宮本武蔵の墓。
通称武蔵塚と呼ばれているもので、
遺言により街道の往還沿いに葬られ、
熊本藩細川家の武運を護らんとして、
遺骸に甲冑を着せて武装させ、
立ち姿のまま棺に納めたとされています。
宮本武蔵は日本で一番有名な剣豪ですが、
その生涯は非常に謎が多い。
13歳の初試合以降60余回試合を行い、
一度も負けなかったとされており、
有名な巌流島の決闘を最後として、
以後はひたすらに剣理の追究と鍛練を重ね、
遂に兵法の道を体得したとされます。
吉岡清十郎ら吉岡一門、宝蔵院胤舜、
高田又兵衛、宍戸梅軒、
そして佐々木小次郎らとの戦いは、
どれも資料に乏しく諸説もあり、
実際のところはよくわかっていませんが、
当時より剣豪と名高かったのは確かで、
相当の実力者だったのは間違いありません。
公園を出て武蔵塚の後ろ側の道路向いに、
西南戦争で戦った松浦新吉郎の墓があります。
「松浦負範之墓」。
熊本隊副隊長松浦新吉郎の墓。
西南戦争で西郷軍に加わった熊本隊は、
旧熊本藩士1400名で編制された部隊で、
党薩隊中で最有力の部隊でした。
※党薩隊は主力の私学校党の部隊ではなく、
西郷軍に呼応した九州各地の諸隊。
熊本隊は熊本城包囲戦後も戦い、
宮崎県の長井村で降伏していますが、
隊長池辺吉十郎らと共に長崎に送られ、
裁判後に斬首されています。
松浦は武蔵塚の傍への埋葬を遺言し、
それに従い遺髪が埋葬されています。
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