熊本県熊本市 小峯墓地

小峰墓地は熊本市中央区黒髪の市営墓地
非常に草深いところであったとされ、
熊本城鬼門(丑寅)にあたります。
かつては陸軍墓地があったようで、
西南戦争から大東亜戦争までの戦死者が、
ここに葬られていたという。
現在は墓地公園として整備されており、
一般の墓地となりました。
区画整備で市内各地の墓地より、
改葬された墓も多くあるようで、
熊本の著名人の墓も点在しています。

宮部鼎蔵の墓がある情報を得て、
この小峰墓地にやってきましたが、
その周辺にある人物もまた凄い。
 
宮部鼎蔵君
 室中尾氏 墓
」。
熊本藩士宮部鼎蔵夫妻の墓。
地下医宮部春吾の長男として生まれ、
伯父で藩士の野村伝右衛門の許に預けられ、
伝右衛門が切腹した際は介錯を務めました。
※藩主世継細川慶前の伝育役でしたが、
 慶前は24歳で死去してしまった為、
 追い腹を切ったとされます。

その後は別の伯父宮部増美の養子となり、
兵学師範の養父に山鹿流兵学を学びました。
国学者林桜園を師事して国学を学び、
山鹿流兵学を通じて吉田松陰と知り合い、
松陰と共に東北各地を遊学。
後に肥後勤皇党に参加しており、
その指導的立場として尊攘運動に邁進し、
京都で周旋活動を行っています。
八月十八日の政変後は一旦長州に落ち、
後に京都へ戻っていますが、
池田屋事件において死亡しました。


肥藩教授玉山秋先生之墓」。
江戸中期の儒学者秋山玉山の墓。
熊本藩士中山定勝の次男に生まれ、
叔父秋山需庵の養子となっており、
儒学者水足屏山に儒学を学び、
昌平坂学問所で朱子学を修学。
教鞭を取るほどの学者となりました。
帰藩は学問指南役に任じられ、
熊本で多くの弟子を育てており、
その名声は他国に知れ渡ったようで、
高松藩宇土藩日出藩等に招かれ、
藩主の前で講釈しています。
後に藩校時習館の設立を建白し、
これが入れられて時習館が創設されると、
学風の元となる時習館学規を制定。
宝暦13年(1763)に死去しました。


加屋霽堅之墓」。
神風連副首領加屋霽堅の墓。
熊本藩士加屋熊助の長男に生まれ、
林桜園に国学や神道の教義について学び、
肥後勤皇党に参加ししました。
文久2年に御所警備の為に上京しますが、
翌年の八月十八日の政変の影響から、
元治元年に帰国して投獄されており、
慶応3年の放免まで入獄。
明治4年の二卿事件で再び投獄され、
放免後は錦山神社神官となっています。
明治9年の同志太田黒伴雄らと挙兵し、
神風連の乱
熊本鎮台司令官種田政明宅と、
熊本県令安岡良亮宅を襲撃。
種田と安岡含む6名を殺害すると、
そのまま熊本城の熊本鎮台を襲撃し、
兵士らを殺害して砲兵営を制圧しました。
しかし翌朝には政府軍の反撃が開始され、
加屋は両刀を握りしめて奮戦し、
砲兵営の戦いで戦死しています。


長谷幸輝之墓」。
筝曲家兼三味線奏者長谷幸輝の墓。
幼年期に盲目となっており、
筝曲家雪之都に師事してを学び、
地歌三味線奏法も学びました。
明治10年に独立して盲人音楽家となり、
明治26年に上京して活動。
九州の地歌を広めて多くの弟子を育て、
非常に有名だったようです。
大正9年、死去。

宮部周辺の墓を紹介しましたが、
他にも著名人の墓がある模様。
いつか再訪する事があるかもしれません。

■関連記事■
熊本県熊本市 桜山神社
 肥後勤皇党及び神風連烈士の墓所。

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