中国地方の覇者毛利元就は元亀2年(1571)、
吉田郡山城のお里屋敷で危篤に陥り、
6月14日の巳の刻に死去しました。
遺骸は大通院に移されて葬儀が行われ、
初七日の法会の後に火葬。
遺骨は大通院境内に埋葬されました。
「毛利元就公火葬場伝承地」。
吉田郡山城西麗にある火葬場跡。
三間四方が石垣で囲まれていますが、
実際の火葬では10間四方に小石を敷き、
沈香が焚かれたとされています。
「毛利元就墓所入口」。
大通院谷を登ると鳥居が現れます。
埋葬時は谷全体が大通院の境内でしたが、
元就の三回忌に洞春寺が建立され、
埋葬地は洞春寺境内となりました。
「毛利元就墓所(洞春寺跡)」。
少し歩くと現れる鳥居。
元就菩提寺として建立された洞春寺跡で、
毛利家の本拠移転と共に移動しており、
広島、萩、山口へと移り、
現在の洞春寺は山口市にあります。
毛利元就の墓所は最奥の高い位置。
玉垣が設置されてあり、
これより奥には入れません。
「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」。
墓には墓石はなく玉垣に囲まれた墳丘。
中央にハリイブキが植えられた樹木墓で、
既にハリイブキは枯れているようですが、
後に育ったシラカシに支えられて、
かろうじて樹立しているようです。
石灯篭が崩れているのは、
最近倒木があったとのこと。
「洞春公御廟之図(現地説明板より)」。
これは宝暦12年(1762)の絵図ですが、
以降に何度も手を加えられている模様。
本丸登山道より見た元就の墓。
やはり遠くてよくわかりません。
毛利元就は毛利家9代毛利弘元の次男で、
家督を継いだ兄毛利興元(10代)や、
その長男毛利幸松丸(11代)が早逝した為、
12代当主として家督を相続しています。
山陰に勢力を持つ尼子家が安芸に侵攻し、
元就はこれを撃退した事で勢力を拡大。
大内義隆を殺害した陶晴賢を討つと、
次いで大内義長を滅ぼして防長を掌握。
尼子義久も降伏させて中国地方を平定し、
西日本最大の大大名に登り詰めました。
本丸登山道にある嘯岳禅師の墓。
「嘯岳禅師墓」。
嘯岳禅師は二度も明に渡った高僧で、
高源寺、建仁寺、南禅寺等の住職を務め、
竹原の妙法寺(現西方寺)に移っていますが、
元就は彼に帰依していたという。
元就葬儀の導師も務めており、
洞春寺の開山にもなっています。
「毛利一族墓所」。
元就墓より一段低い位置にある一族の墓所。
明治2年に周辺の毛利家の墓を改葬したもの。
「歴代当主合葬墓」。
初代~8代の当主の合葬墳墓で、
大通院谷奥にあった古墓を改葬したもの。
毛利家は毛利時親より始まり、
毛利貞親、毛利親衡、毛利元春、
毛利広房、毛利光房、毛利煕元、
毛利豊元、毛利弘元と続き、
元就の兄興元へ繋がっています。
この墓は時親から豊元までの墓。
※9代弘元の墓は悦叟院跡。
「毛利興元墓(左)」、
「毛利幸松丸墓(中央)」、
「毛利隆元夫人墓(右)」。
10代当主毛利興元の墓、
11代当主毛利幸松丸の墓、
13代当主毛利隆元正室尾崎局の墓。
興元と幸松丸の墓は秀岳院跡にあり、
尾崎局の墓は吉田郡山城内にあったようで、
これらもここに集められたようです。
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