乃木希典は歩兵第14連隊連隊長として、
明治10年の西南戦争に参戦。
主力に先行して熊本へ向かいますが、
2月22日に植木で薩軍の猛攻に遭い、
退却を余儀なくされます。
乱戦で隊旗旗手河原林少尉が撃たれ、
薩軍に連隊旗を奪われてしまい、
乃木はその後の戦闘では死所を求め、
高瀬の戦いで負傷入院となった際も、
病院を抜け出して戦線に復帰。
その後の戦闘で更に負傷しますが、
再度脱走して脱走将校と呼ばれたという。
部下らは乃木を何度も諫め、
死に急ぐ連隊長を注視していましたが、
遂に乃木は軍刀での自殺を試みます。
偶然その場に居合わせた櫟木哲造軍曹は、
乃木の刀を奪おうとしますが能わず、
持っていた銃で乃木の腕を打ち叩き、
刀を落として自殺を静止。
を諫めて自殺を思い止まらせました。
この乃木の自殺を止めた櫟木哲造の墓が、
小倉南区城野4丁目の墓地にあります。
「陸軍歩兵曹長櫟木哲造之墓」。
櫟木哲造は軍曹として乃木の麾下となり、
歩兵第14連隊として各地を転戦。
連隊旗を奪われた乃木の様子を見て、
他の隊士らと共に乃木を注視し、
死に急がぬよう嘆願していたという。
野木の自殺を制止した後も戦い、
後に曹長に昇進するも軍籍を去り、
城野字小原で晩年を過ごしたとのこと。
墓は帝国在郷軍人会企救町分会により、
大正13年に建立されたもの。
ちなみに豊津藩の藩校育徳館が発足した際、
その教職員のメンバーの中に、
習書世話方として櫟木哲造の名があります。
珍しい名前ですので本人と思われますが、
それならばある程度の教養はあり、
本人が希望すれば出世も出来た筈ですが、
たぶん彼はそれを望まなかったのでしょう。
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