江戸時代最大の財力を誇った鴻池家。
伊丹鴻池村の酒造業から始まる鴻池家は、
大坂に進出して金融業で莫大な富を得て、
多くの大名に融資を行っていたようで、
[鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う]と、
人々の称された程であったという。
「顕孝庵」。
顕孝庵は中央区中寺町にある曹洞宗寺院。
始め玉泉寺という寺院だったとされますが、
何らかの理由で廃寺となっていたようで、
寛文元年(1661)に鴻池家が菩提寺として復興。
その際に寺号が顕孝庵と改められました。
「鴻池家墓所」。
裏手の墓地の大部分を占める鴻池一族の墓所。
鴻池家は山中幸盛(鹿介)を祖先に持つとされ、
始祖の鴻池直文は幸盛の長男(次男)。
※諸説アリ。
70余基も並ぶ五輪塔には圧巻されます。
「一翁宗圓居士(右)」、
「泰照院月秋道圓居士
方廣院華屋妙巌大姉(中央)」、
「一圓宗信居士(左)」。
右は始祖鴻池新右衛門(新六)直文の墓、
左は初代鴻池善右衛門正成の墓、
中央は直文の大伯父山中信直夫妻の墓。
直文は山中幸盛(鹿之助)の子で、
別所家家臣黒田幸隆に預けられますが、
後に父も幸隆も討死してしまい、
9歳で大叔父信直を頼って伊丹に至ります。
成長した直文は帰農して酒造業を生業とし、
屋号を地名から[鴻池屋]としており、
清酒製造の技術を開発して利益を挙げ、
江戸にも輸送して更に隆盛しました。
※鴻池屋の手代が怒られた腹癒せに、
酒樽に灰を投げ込んだことが、
清酒製造発見に結びついたという。
元和年間(1615-1624)には大坂に進出し、
和泉町を本拠に大規模な酒造業を展開。
寛永年間(1624-1644)には海運業も開始し、
参勤交代等の荷物輸送を請け負っています。
本家は七男山中新右衛門元英が相続し、
大坂の事業は次男山中善兵衛秀成と、
三男山中又右衛門之政が酒造業を、
八男正成が海運業を相続しました。
正成は海運業で諸大名と懇意となり、
後に海運業を廃業して金融業を開始。
大名貸しや両替で巨万の富を得るに至ります。
この善右衛門正成の系譜が最も隆盛し、
歴代の当主は[鴻池善右衛門]を名乗りました。
中央の信直夫妻の墓は供養塔で、
明和元年(1764)に当時の住職が建立したもの。
信直は幸元の育ての親であった為、
鴻池家では太祖の扱いとされています。
※信直は荒木村重の家臣。
新選組が鴻池から200両を押借りし、
京都の大丸呉服店で隊服を仕立てたのは、
結構有名な話です。
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