大阪府大阪市 齢延寺

齢延寺源聖寺坂の上にある曹洞宗寺院。
稲垣重綱(重種)が父母の供養の為に、
豊川妙厳寺節山義春大和尚を招き創建。
稲垣家の大坂菩提寺として、
鳥羽藩より毎年供料10石が送られ、
明治初年に至るまで続いたようです。


本堂」。
本堂山門庫裡客殿と、
平成期に建て替えられたようで、
どれもかなり立派なもの。

ここには私塾泊園書院の主宰、
儒学者藤澤東畡の一族の墓所があります。

東畡藤澤先生墓(右)」、
南岳藤澤先生墓(中央)」、
黄鵠藤澤先生墓(左)」。
儒学者藤澤東畡の墓、
藤澤南岳の墓、藤澤黄鵠の墓。
藤澤東畡は讃岐国香川郡の農家に生まれ、
地元の儒学者中山城山に学び、
25歳で長崎に遊学。
文政7年(1824)に大坂で私塾泊園書院を開き、
教育者として名声を挙げており、
後に高松藩に召し抱えられています。
泊園書院の門人は3000人を越えたとされ、
大坂最大の私塾となっており、
嘉永6年には吉田松陰も訪問。
将軍徳川家茂への謁見も果たしますが、
同年の元治元年に死去しました。
南岳は東畡の長男の長男で、
泊園書院を父から継承しており、
高松藩の藩論に大きく影響を与え、
藩是を佐幕から勤皇へ向かわせており、
藩学講道館の督学にも就任しています。
[通天閣]の命名者でもあり、
大阪市内の多くの小学校も命名。
大正9年に死去しました。
黄鵠は南岳の長男として生まれ、
幼少期より父に家学を学び、
東京に出て経学と詩文を学んでいます。
明治31年に中華へ留学しており、
明治36年に家督を継ぎ泊園書院で教授。
明治41年に衆議院議員となりますが、
桂内閣の外交を批判して辞職し、
以後は教育者として尽くしました。
泊園書院は後の関西大学の源流となり、
黄鵠は最初の名誉教授となっています。

無縁墓群にある島村寿太郎の墓。
彼は武市半平太の義弟でした。

島村洲平之墓」。
島村寿太郎の墓。
島村は郷士島村雅風の子に生まれ、
槍術に優れた任侠の人であったという。
姉富子は武市半平太の妻となっており、
自らも土佐勤王党に加盟。
運動資金を負担する等しており、
文久3年の勤王党の獄では難を逃れました。
慶応3年に板垣退助水戸浪士を独断で匿い、
密告によって窮地に立たされると、
板垣を囲って脱藩を進言。
後に戊辰戦争に従軍して戦果を挙げますが、
新政府には仕官せずに隠棲し、
明治6年に上京する途中の大阪にて死去。
島村は武市の切腹の際には介錯を務め、
武市が三文字に割腹すると同時に、
同役小笠原保馬と共に脇腹を小刀で刺し、
武市を苦悩から解放しています。

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東京都品川区 板垣退助墓所
 品川にある板垣退助の墓所。

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