一心寺は天王寺区にある浄土宗寺院。
[骨仏の寺]として知られており、
遺骨を砕いて仏像とした骨仏が造られ、
総数200万柱の遺骨が骨仏になっています。
「本堂」。
四天王寺西門に法然上人が草庵を結び、
後に源空庵と称したのが始まりで、
後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れ、
共に日想観を修したとされます。
後の慶長元年(1596)に本誉存牟上人が、
この法然旧跡で一千日の念仏修法を行い、
源空庵を一心寺として再興。
慶長5年(1600)には徳川家康が、
大坂で死去した八男仙千代の葬儀を行い、
大坂冬の陣では家康が本陣としており
徳川家の庇護を受け隆盛しますが、
文化文政期には衰退。
天保期に真阿上人により復興され、
庶民向けに宗派を問わず、
無縁仏を供養する施餓鬼供養を始め、
これが評判となり納骨希望で溢れて、
骨仏を造るようになったという。
「前本多出雲守藤原朝臣忠朝
三光院殿岸誉良玄居士」。
本多忠勝の次男本多忠朝の墓。
父に劣らぬ勇将であったとされ、
父の桑名藩移封に伴い、
旧領大多喜5万石を拝領しています。
しかし大坂冬の陣で酒に酔って不覚を取り、
これを家康に叱責されていた為、
夏の陣で汚名返上しようと奮戦。
豊臣方の毛利勝永と戦って討死しました。
死に際に[酒で身を誤る者を救おう]と遺言し、
以後は[酒封じの神]として敬われました。
忠朝の墓所の裏手へ。
「會津藩士墓所」。
保科家家臣及び会津藩士の墓所で、
左から、
會津藩士黒河内只四郎墓、
會津藩士有賀武次郎墓、
會藩士三瓶鉄藏勝直墓、
仁徳院義齊直忠居士(野田清次郎)、
保科臣原治兵衛墓、
白井五郎太夫墓、
井上直忠墓、
木本左門墓、
柴〇助墓、
會津藩士山本慶助墓、
會津藩士高橋金兵衛墓、
会津藩白井砲兵隊組頭小池勝吉墓、
義誠院昇月自観俊香居士(原源右衛門俊秀)。
原治兵衛、井上、芝は大坂の陣の戦死者で、
他は鳥羽伏見の戦いの戦死者です。
詳しい由緒はわかりませんが、
会津松平家の祖保科正之は家康の孫で、
2代将軍徳川秀忠の四男ですので、
徳川家ゆかりのこの寺に自らの家臣を葬り、
その縁で会津藩も戦死者を葬ったのでしょう。
会津藩墓所の他に旧幕軍の招魂碑もあります。
「明治戊辰伏見之役 東軍戦死者招魂碑」。
明治31年に在阪旧幕臣により建立された碑。
旧幕臣である高橋泥舟による書です。
■関連記事■
・大阪府大阪市 四天王寺
日本仏教最古の寺院のひとつ。
・千葉県夷隅郡 良玄寺/本多忠勝墓所
本多忠勝及び忠朝の墓所。
・東京都台東区 大雄寺/高橋泥舟墓所
三舟のひとり高橋泥舟の墓所。