佛光寺は浄土真宗佛光寺派の本山寺院。
元応2年(1320)に了源上人が創建し、
興正寺として山科に開山していますが、
寺伝では親鸞聖人が創建した興隆正法寺が、
その源流であるとされています。
後に興正寺の阿弥陀如来像が盗まれ、
後醍醐天皇が光りを差す夢を見た事で、
この夢を頼りに如来像が発見された為、
以降は寺名を佛光寺に改称。
山科から渋谷に移転した後は、
多くの参詣者を迎え隆盛を極めますが、
天台宗の延暦寺からの弾圧が強まり、
更に応仁の乱で伽羅が焼失しました。
その頃に急激に発展した本願寺は、
佛光寺の有力末寺の殆どを吸収し、
その寺勢は急激に衰退。
天正14年(1586)の豊臣秀吉の懇請で、
現在地に移転しており、
残った有力末寺6坊と共に、
江戸時代は運営していたようです、
「御影堂門」。
切妻四脚門の御影堂門。
「太師堂」。
親鸞聖人坐像を祀る太師堂。
他の真宗本山と同様に本堂より大きい。
内部須弥壇上に親鸞聖人坐像を祀り、
両脇壇に中興の了源上人坐像と、
前住上人の絵像を安置しています。
明治17年の再建。
「阿弥陀堂」。
本堂にあたる阿弥陀堂。
本尊阿弥陀仏立像を安置しています。
内陣須弥壇上に阿弥陀如来立像、
両脇壇に聖徳太子像と法然上人坐像を安置。
両余間に竜樹、天親、以下六高僧の坐像と、
後醍醐天皇の位牌を安置しています。
明治37年の再建。
慶応2年に佛光寺門主が死去しますが、
死因に不審な点があった事から、
僧侶らは京都守護職に調査を依頼します。
守護職の出動要請を受けた新選組は、
東山掛所に潜伏する容疑者3名を捕縛し、
※現在の佛光寺本廟。
彼らの供述から北村将監が首魁と判明。
北村は近江の某村に出張中であった為、
新選組は隊士を大津まで派遣し、
北村の身柄を拘束しました。
北村は西本願寺の屯所に連行され、
しばらくの間取り調べが行われますが、
暗殺の立証は出来なかった為に釈放。
事件はそのままになっています。
白を黒とする程の新選組の取り調べ。
何も無いまま釈放って・・。
反対に闇がありそうとか、
陰謀論に走っちゃいそうな話ですね。
■関連記事■
・京都府京都市 西本願寺
真宗本願寺派の本山寺院で新選組屯所。
・三重県津市 本山専修寺
真宗高田派の本山寺院。
・京都府京都市 東本願寺
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