宝塔寺は伏見区深草にある日蓮宗寺院。
極楽寺という真言宗の寺がその前身で、
鎌倉末期に布教中の日蓮宗の僧日像が、
極楽寺の住持良桂と法論を行い、
この事から良桂が日像に帰依します。
良桂が真言宗に改宗した事により、
極楽寺は日蓮宗に改宗し鶴林院と改称。
後に日像が妙顕寺で入寂しますが、
遺言により鶴林院で荼毘に付され、
境内に葬られました。
その後に日像が建立した題目宝塔を、
その廟所に祀った事から、
寺名を宝塔寺に改められています。
「総門(四脚門)」。
室町中期建立の四脚門。
宝塔寺は応仁の乱で焼失しますが、
この四脚門は免れたようです。
国指定重要文化財。
塔頭が並ぶ参道には日像の荼毘所があり、
その先に赤い仁王門が聳えます。
「仁王門」。
宝永8年(1711)に再建された仁王門。
京都所司代松平信庸が助資したとのこと。
「本堂」。
慶長13年(1608)再建の本堂。
本尊の三宝尊を安置している他、
日蓮像と日像像が置かれています。
入母屋造、本瓦葺、桁行七間、梁間五間。
国指定重要文化財。
本堂右より宝塔寺墓地へ。
「多宝塔」。
永享11年(1439)以前に建立された多宝塔。
応仁の乱や天文法華の乱の戦火を免れ、
京都で一番古い多宝塔となっています。
国指定重要文化財。
この墓地に平野長泰の墓かあります。
長泰は宝塔寺再興に尽力したようで、
その縁で墓が建てられた模様。
「長泰院殿法巖了無大居士(左)」、
「法久院殿日妙幽神(右)」。
平野長泰夫妻の墓。
長泰の父平野長治は羽柴秀吉の家臣で、
三男であった長泰も同様に仕え、
賤ヶ岳の戦いで格別の働きを魅せ、
一番槍の巧名を顕しています。
他の功臣と共に[賤ヶ岳七本槍]と称され、
感状と知行3000石を拝領。
小牧長久手の戦いでも戦功を挙げ、
後に5000石を加増されました。
但しそれ以降は加増は無く、
秀吉の死後は徳川家康に従いますが、
関ヶ原本戦には不参加。
大坂の陣でも江戸城留守居役となり、
平野家は5000石のまま続きます。
長泰は徳川家光の代まで仕え、
寛永5年(1628)に死去。
子孫は交代寄合5000石として続き、
維新後の高直しで大名となっています。
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