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名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、
その拠点として築かれた巨大な城。
文禄元年(1592)の開戦から、
秀吉の死で撤退する慶長3年(1598)まで、
大陸侵攻の拠点となりました。
その規模は約17万㎡にも及び、
大坂城に次ぐ規模を誇っており、
周囲に130以上の諸大名の陣屋が構築され、
約20万人が集まったとされています。
朝鮮出兵は安土桃山時代の話で、
ブログの趣旨からは外れてはいますが、
全国の戦国大名が集った場所であり、
非常に壮大なロマンを感じさせる場所。
唐津市街から車で40分程度の距離ですので、
行かない選択肢はありませんでした。
「大手門跡」。
駐車場で車に置いて登城を開始。
観光案内所を過ぎると石垣や溜池が現れ、
それだけで城の規模が伺えます。
大手門跡はそれ程大きくはなく、
普通の城の大手門程度といったところ。
そこから真っすぐ緩やかな登城坂が続きます。
「東出丸跡」。
坂を登った先は東出丸跡。
低い石垣で囲まれた長方形の曲輪で、
大手門や三ノ丸警護の侍詰所があったという。
「三ノ丸跡」。
登城坂を360°屈折して三ノ丸跡へ。
本丸大手門に続く曲輪である為、
3つの櫓を要した強固な縄張りでした。
「本丸大手門跡」。
本丸への大手口にあたる門で、
強固な桝形虎口となっています。
廃城の際にはここにあった大手門を、
伊達政宗が拝領したとされており、
青葉城(仙台城)に移築したとのことですが、
空襲で焼失してしまい未現存。
とりあえず本丸跡は後回しにして、
馬場跡から二ノ丸跡へ向かいます。
「馬場跡」。
二ノ丸と三ノ丸を繋いだ馬場跡。
長い帯曲輪となっており、
南西側から攻めて来る敵に対し、
一斉射撃が可能なようになっています。
「二ノ丸跡」。
広く整えられている二ノ丸跡。
本丸西側にある巨大な曲輪で、
長屋建物の礎石が発見されたようです。
つづく
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豊臣秀吉が築城した巨大な城。