山口県美祢市 友善塾跡

美祢市伊佐町の小さな公園がある場所に、
幕末期に[友善塾]という郷校がありました。
吉田宰判の代官となっていた玉木文之進が、
吉田松陰の叔父。
伊佐周辺に子弟が学べる機関が無かった為、
在住藩士らに郷校設立を勧奨。
これに応えた三戸久五郎高木謙蔵
志道源蔵ら在郷の藩士らが資金を集め、
安政3年に郷校を創立させます。
[有善塾]の名は松陰の命名とされており、
松陰は玉木に依頼されて[有善塾記]を代作し、
塾生は全て善人であるのでこの上は、
一国の善士、天下の善士と交わり、
友となりなさい
」と説いたとされ、
その願いを込めて[有善塾]としたようです。


有善塾跡」。
徳定会館(公民館)前の小さな公園。
ここに[有善塾]があったようです。
藩校や郷校は藩営によるものであったり、
そこの領主が創建したりするものですが、
上記のように在郷有志による創建の為、
費用は在郷藩士や民間有志が負担。
従って私立の郷校という稀な形態でした。
※一人の主宰かいる私塾とも違う。
12歳以上であれば身分を問わず入門でき、
漢学剣術砲術を教えていたようですが、
武術の方が主要科目だったとされます。
その創立は松下村塾と同時期とされ、
[有善塾]は維新後も続いていましたが、
明治6年1月の学制発布によって、
[伊佐小学校]と改称されました。

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