東京都千代田区 盛岡新田藩上屋敷跡

諸藩藩庁は基本的に領国にありますが、
実際に領地経営していない新田藩の藩庁は、
一体どこになるのでしょうか??
その答えは定められてはいませんが、
普通に考えれば江戸藩邸ではないでしょうか?
新田藩の多くは維新後に藩庁を構えますが、
江戸期にはまだ存在していません。

当ブログでは諸藩の藩庁をリスト化して、
その全てを訪問するつもりなのですが、
※何年掛かるかはわかりません。
新田藩の藩庁を無視するというのは、
リストとしては不十分かと思われます。
そこで新田藩の藩庁を江戸上屋敷とし、
その所在地を調べました。

まずは■盛岡新田藩
盛岡藩5代藩主南部行信が実弟南部政信に、
に5000石を分知して別家を興させ、
これが旗本寄合席として5代続き、
5代南部信鄰が宗家から蔵米6000石を得て、
11000石の定府大名として立藩。
5000石分知の際は領地があったようですが、
後に返還して蔵米及び金納に変更しており、
全く領地経営はされていませんでした。
2代南部信誉北方警備の功績によって、
無城大名から城主格大名に昇進しますが、
幕府は盛岡藩に領地の割り当てを命じ、
盛岡藩は三本木を陣屋地として報告。
しかし実際は陣屋は建設されておらず、
蔵米支給が続けられています。
維新後に新政府は新田藩を認めなかった為、
盛岡藩は城主格昇進時に分知したと偽り、
七戸代官所が陣屋であると認められ、
青森県上北郡 七戸城跡①
盛岡新田藩は七戸藩となりました。


盛岡新田藩上屋敷は現英国大使館南側。
麹町に上屋敷があった為に、
麹町南部家と呼ばれていました。


番町繪圖(一部)」。
堀沿いの[南部丹波守]と書かれた屋敷が、
盛岡新田藩の上屋敷。
隣の[永井信濃守]は大和新庄藩上屋敷
更に大身旗本水野石見守
七日市藩上屋敷と続いています。

以降数回新田藩について記事にします。
盛岡新田藩上屋敷跡/久保田新田藩上屋敷跡
広島新田藩上屋敷跡/土佐新田藩上屋敷跡
小倉新田藩上屋敷跡/椎の木屋敷跡
熊本新田藩上屋敷跡
※実際にはまだ訪問していませんが、
 何れも遺構等は残っていない模様。
 近くに行った際には写真を撮って、
 順次掲載はするつもりです。

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 よくわからない新田藩について。
東京都港区 金地院/七戸南部家墓所他
 旗本時代の当主墓所。
青森県上北郡 瑞龍寺/七戸南部家墓所
 盛岡新田藩3代藩主の墓所。
岩手県盛岡市 盛岡城跡
 宗家盛岡藩南部家の居城跡。

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