山口県防府市 防府市護國神社

元治元年8月、太田市之進山田市之允
品川弥二郎らが御盾隊を結成し、
三田尻の桑山をその本営としました。
後に戦死者を祀る桑山招魂場が造営され、
社殿が建立されて桑山招魂社となり、
桑山護國神社、桑山社と改称して、
現在は防府市護國神社となっています。


社殿」。
品川喜一命他53柱を主祭神とし、
明治維新以後の英霊を配祀神とする神社。
境内は訓練場であったようで、
整地された広場となっています。


贈正四位御堀耕助直方之墓」。
社殿裏手にある御堀耕助(太田市之進)の墓。
太田市之進は御楯隊の総督で、
慶応元年に御堀耕助に改名しています。
御堀は長州藩士太田要蔵の長男に生まれ、
江戸に遊学して練兵館に入門し、
神道無念流剣術を学んで塾頭も務めました。
帰藩後は世子毛利定広の小姓となり、
文久3年には下関攘夷戦に参加。
禁門の変下関戦争を経験し、
元治元年に御楯隊を結成して総督となり、
高杉晋作のクーデターに呼応し、
大田江堂の戦いで活躍しました。
幕長戦争では芸州口で戦い、
戦後は京都に赴き倒幕に向けて周旋。
維新後の明治2年に欧州を視察しますが、
病を得て三田尻で療養を行い、
明治4年に31歳で病死しています。

招魂場は北側と南側に分かれており、
まずは北側へ。

桑山招魂場碑」。
北側の丘陵部が招魂場となっており、
その頂上にこの碑が建てられています。
この碑は明治25年に建立されたもので、
有栖川宮熾仁親王篆額、山田顕義撰、
岡守節書とのこと。


御楯隊墓碑」。
丘陵東側にある御楯隊の招魂場。
墓碑は左奥から神代周治
徳久蘇八飯田孫七木村清助
木村清助吉武多作梅田正三
神代周治吉武五郎吉村盛之助
水田善作柴田文七石崎佐久馬
渡辺与八郎の14基。
※重複している墓碑があります。


御堀耕助藤(中央)」、
吉田甲熊多々良(右)」。
御堀の墓碑はここにもあります。
左側の墓碑は根元から折れており、
誰のものかわかりません。


整武隊墓碑」。
丘陵東側にある整武隊の招魂場。
整武隊は御楯隊鴻城隊を合併した隊で、
山田市之允(顕義)を総督とし、
戊辰戦争に出征して箱館戦争まで戦いました。
墓碑は前列左から中村靖太高田伴蔵
村上与一林鹿蔵金子伝吉河村栄蔵
石川新次郎村井只作上田滝之助
入江隼人佐伯鉄之助河村梅吉
品川喜一佐波新六郎桂勝三郎
乃木初太郎河口作兵衛泰文之進
田村民輔多田熊槌未だ喜十藤原五郎
飯田孫六粟屋市之進長沢保徳西寿熊
戸田小八郎駒井政五郎渡辺与八郎
李家内蔵介国守誠之助柴田文七
大庭政之助十川東之輔の計34基と、
後列左から長松登人吉野吉蔵松原啓助
池田甲熊児嶋佐一郎奥島権七
佐久間重助溝辺若熊竹本五郎
出井八十八桂茂助石田源七古谷嘉兵衛
岸辺繁太郎嘉来信吉中川豊蔵
津村精作秋月良人森政寅輔
岸梅之進岡村源太郎山本祐次郎
山本善太大橋四郎矢田部永次郎
伊藤元三郎落合軍一吉松弥一郎
岸田禄郎吉武竹五郎岡本順治
入江二郎吉玉木彦助の計33基。


田中正七郎之霊」。
ひとつだけ離れた田中正七郎の墓。
明治10年の西南戦争に出陣し、
5月31日の大分の戦いで戦死していますが、
何故ここに墓があるのかは不明。
行年24歳とのことですので、
整武隊士かは微妙な年齢のようです。

丘陵を降りて広場の南側へ。

長州藩海軍関係墓碑」。
鳥居や石垣がある事から、
社殿が建てられていたと思われますが、
その詳細は不明です。


甲子殉難烈士山田亦助松島剛蔵の他、
下関戦争での戦死者の墓碑があります。
前列は山田と松島の2基で、
後列は左から井原嘉平次小山總右衛門
助重助三郎横山市平齋藤亀蔵
堀寅蔵山本弥八の9基。


遊撃軍墓碑」。
こちらは遊撃軍(遊撃隊)の招魂場。
他藩の浪人が多く在籍した部隊で、
功山寺挙兵に最初から呼応しています。
ここにある墓碑は9基あり、
禁門の変内訌戦の戦死者と、
志半ばで病死した隊士のもの。
玉之石卯兵衛田村勇人萩原忠一郎
松村喜代蔵国広忠吾の他に、
壬生藩那須唯一園部藩今枝恭蔵
土佐藩桑原義之助ら脱藩浪士や、
井上聞多の恩人所郁太郎の墓もありました。


干城隊墓碑」。
功山寺挙兵に呼応した藩士らにより、
で結成された干城隊の墓碑。
墓碑は右から熊野基三木屋彦三郎
沓屋兵衛柳恭蔵熊野基三の5基ですが、
こちらも墓碑が重複しています。

防府護國神社には広い敷地があり、
後の戦役の英霊の墓碑も建てられますが、
あえてしなかった模様。
その理由は明らかではありません。

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山口県防府市 桑山招魂場
 前回訪問時の記事。
山口県熊毛郡 麻郷護国神社
 上関宰判管内の戦死者を招魂する招魂社。
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 岩国藩の戦死者を招魂する招魂社。

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