近藤篤山の墓所へ行ってみます。
「篤山先生墳墓」標柱。
こういう標柱は遠いことが多いのですが、
ここもご多分に漏れず結構遠く、
結局は県立小松高等学校の近くでした。
炎天下を歩いて汗がダラダラ・・。
「黒川中将墓處入口」。
通学路の途中にありましたが、
地元の出世頭なんだろうと思い、
これをスルーしかけましたが、
スマホで調べてみると幕末期の人物。
これは参拝せねば・・。
「陸軍中将従一位勲一等男爵黒川通軌墓」。
道なき道を進み辿り着いたのは黒川家墓所。
結局は高校の脇に出るので、
高校敷地内から行く方が楽だったでしょう。
※高校敷地から行けるかはわかりません。
黒川通軌は近藤篤山の長男近藤南海に学び、
後記する田岡俊三郎らと尊攘運動を展開。
生野の変に敗れた澤宣嘉の潜伏も助け、
維新後に陸軍の入隊し、
明治6年に陸軍大佐に昇進。
陸軍裁判長兼軍馬局長に任命され、
佐賀の乱、神風連の乱の鎮圧に従軍し、
西南戦争で熊本鎮台第三旅団長として活躍。
更に陸軍少将及び広島鎮台第五師団司令官、
明治18年には中将に昇進、
第三及び第四師団長歴任後、
明治26年に東宮武官兼東宮大夫を拝命。
皇太子(大正天皇)の養育に当たりました。
明治36年に死去。
通学路まで戻る。
「贈正五位田岡俊三郎之碑(表忠碑)」。
小松高校正門前にある田岡俊三郎の碑。
田岡は小松藩士田岡表蔵の子として生まれ、
藩校養正館で近藤南海に儒学を学び、
槍術師範佐伯孫太夫に一旨流を学びました。
嘉永3年より槍術修行で各地を遊歴し、
帰国後は槍術の指導にあたっています。
文久2年に情勢探索のため京都へ派遣され、
藤本鉄石、松本奎堂ら他藩士と親交し、
尊王攘夷運動を運動を展開しました。
その後は脱藩して七卿と共に長州へ下り、
澤宣嘉に従って生野の変に参加。
澤を護って美作、備前、讃岐に潜伏し、
伊予に戻って澤を匿っています。
その後、澤を長州に送り届けると、
そのまま長州に滞在しており、
長州藩の京都進発に同行して、
禁門の変に参加し戦死しています。
少し戻って近藤家の墓所へ。
「近藤家墓所」。
通学路脇にある近藤家の墓所。
近藤篤山の一族の墓碑が並びます。
「篤山近藤先生墓(左)」、
「篤山近藤先生配合田氏墓(右)」。
篤山の墓と篤山の妻合田氏の墓。
篤山は養正館で人格完成の三本柱として、
立志、慎独、求己の三戒が重要と説き、
また婦女子の教訓として四如の喩を説いて、
藩士のみでなく庶民に対しても、
さらに藩外へも大きな影響を及ぼした。
松代藩の佐久間象山は手紙の中で、
篤山を徳行天下第一の人物と讃えており、
伊予聖人と呼ばれて尊敬を受けたという。
「篤山近藤先生墓表」。
家屋に囲われた篤山の顕彰碑。
反射して何と書いているかわかりません。
近藤家の墓には篤山の他にも、
長男近藤南海、次男近藤簣山など、
近藤家一族の墓もありましたが、
写真を撮るのを忘れてしまいました。
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近藤篤山を招いた小松藩の陣屋跡。
・愛媛県西条市 近藤篤山旧邸
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・愛媛県西条市 小松藩校養正館跡
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