青海島東部の通浦は古式捕鯨で栄えた浦。
中世より行われていた通浦の捕鯨は、
長州藩の保護と奨励によって盛んに行われ、
四大古式捕鯨基地に数えられています。
長門市青海島周辺(通浦の場所)
幕末には外国船来襲に備えた台場が造られ、
吉田松陰もこの地を巡視しました。
※記事はこちら。
「通浦 住吉神社」。
航海や漁業の神として民に信仰された神社。
この神社の境内に台場が建設されました。
「住吉神社拝殿」。
かつては浦の内外からの参拝者が絶えず、
境内の燈明が絶えなかったという。
網頭が今朝は早く網をだせとお告げを聞き、
網舟を出すと浦の入口あたりに、
お櫃が一つ浮かんでいるのが見えた為、
それを引き上げてお櫃の扉を開いてみると、
中に一体の木像とお札が入っていたという。
これを代官に届けると祠を建よと命じられ、
この場所に祠が建てられたということです。
みよちゃんは不思議なポーズ(笑)。
松陰は住吉社台場に寄ったとの事ですが、
台場がどこにあったのかはよくわからない。
境内で大砲が置けそう所といえば、
石段両端にあるこの平らな場所でしょうか?
住吉神社を出て通浦の湾内へ。
「くじら資料館」。
通浦の古式捕鯨に関する資料や、
捕鯨漁具等を展示する資料館。
資料館に展示されている下り鯨の回遊路。
仙崎湾まで鯨が回遊していたようですね。
資料館を出て東側の石段を登ると、
鯨の墓があります。
「鯨墓」。
70体にも及ぶ鯨の胎児が埋葬される鯨墓。
全国に100基近い鯨墓があるようですが、
これほど立派なものは無いという。
鯨が1頭取れれば七浦が潤ったとされ、
広い海でわざわざ湾内に入ってくれる鯨は、
まさに海からの贈り物のようでした。
「真光寺」。
浦の細い路地を通った先にある寺院。
大内氏の滅亡後に家臣であった森助信が、
通浦に遁世して創建しました。
松陰は真光寺後台場を巡視していますが、
[真光寺後]という名称ですから、
真光寺の後側にあったのでしょう。
真光寺の後側へ。
中央の大きな屋根が真行寺本堂。
石垣上に大砲が設置されていたのでしょう。
松陰は住吉社台場、真光寺後台場の他、
横浜台場を見分しているのですが、
その横浜というのがどこかわからない。
通浦漁港裏手にある外海に面した小さな港。
松陰は番山の遠見番所から、
横浜台場、真光寺後台場と巡視しており、
その経路から察するに、
この浜が横浜なんじゃないかと思います。
舟家が立ち並んでいるあたりに、
砲台が設置されていたのでしょうか?
プーチンが訪れたという日露戦士の墓へ。
長い下り坂を進んで海岸に降りてみると、
海を向いて二つの墓が建てられていました。
「日露戦役常陸丸遭難者之墓(手前)」、
「日露戦役露艦戦士之墓(奥)」。
日露開戦時の陸軍の御用船常陸丸は、
将兵約千人を乗せて支那大陸へ向かう途中、
玄界灘でロシア艦に撃沈されました。
その将兵の遺体が通浦沖合に流れてきた為、
漁師がそれを拾い上げて葬ったとの事。
手前の新しい墓碑は、
その後の大正10年に村で建立したもの。
奥の墓碑はロシア兵士のもので、
日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅した際、
多くのロシア兵の遺体が山陰各地に漂流し、
数体が通浦に打ち上げられたという。
墓碑は自然石を置いただけのものでしたが、
明治100年記念に新しく建立されました。
ロシア兵が打ち上げられたという大越の浜。
萩の相島や大島が見えます。
通浦は萩とのろしで交信していたという。
確かに交信が可能な位置関係。
ペリー艦隊来航の本来の目的は、
捕鯨船の補給拠点の確保の為。
灯火油に使用する鯨油を取る為に、
太平洋やカムチャッカ沖で鯨が乱獲され、
長年行われていた通浦の古式捕鯨は、
減衰することになりました。
油取るためだけに鯨を乱獲し、
油を抜き取って海に捨てていた欧米が、
湾内に入り込んだ極めて少量の鯨を、
その全身をくまなく活用し、
供養まで行った日本に対して、
[野蛮!]という事自体、
理不尽な話だとは思いませんか?
■関連記事■
・古式捕鯨と開国
実は関係のある捕鯨と幕末の開国。
・吉田稔麿
鯨が獲れない理由を知ったなら・・。
・下関市岬之町 岬砲台跡
近代捕鯨発祥の地のひとつでもある 。