栃木県宇都宮市 宇都宮藩戸田家墓所

英厳寺宇都宮藩戸田家菩提寺でしたが、
宇都宮の戦いにおいて消失しました。
かつては藩主家の菩提寺ということで、
大規模な寺院だったようですが、
現在は廃寺となって住宅街になっています。

跡地は現在英厳寺児童公園となっており、
四方を住宅が囲むという不思議な場所に、
宇都宮藩戸田家の墓所があります。


花房本町付近(英厳寺児童公園の場所)
区画のど真ん中にあり、
四方が完全に囲まれていますので、
外側からは存在が全くわかりません。
北側の路地に入り口があります。


英厳寺児童公園」入口。
北側の民家と民家の間に入口があります。
路地の角を曲がると鳥居が見え、
この鳥居をくぐると広い墓域ですが、
児童公園というより普通の墓所。


宇都宮矦忠烈戸田公之墓」。
宇都宮藩6代藩主戸田忠恕の墓。
宇都宮藩は譜代藩ながら尊攘志向が強く、
勤皇儒者大橋訥庵を召し抱えており、
藩士の多くが尊攘運動に関わりました。
文久2年に坂下門外の変が起こると、
襲撃者と親交のあった藩士らが捕縛され、
宇都宮藩は幕府から危険視されます。
これを打開する為山陵修補事業を建白。
諸陵修復の一切が宇都宮藩に委託され、
文久の修陵」が開始されました。
※記事はこちら
しかし天狗党の乱の不手際から、
忠恕は強制隠居を命じられる事となり、
棚倉藩への減移封が決まりかけましたが、
朝廷のとりなしや修陵の功を鑑みられて、
減移封は取り止めとなりました。
戊辰戦争で藩主戸田忠友は大津に抑留され、
藩主に代わって宇都宮軍を指揮。
旧幕府軍に宇都宮城を奪われていますが、
新政府軍の加勢を得て奪還しており、
同年に病に倒れて病死しています。


従二位勲三等子爵戸田忠友」。
宇都宮藩7代藩主戸田忠友の墓。
宇都宮戸田家の支流旗本戸田忠偲の嫡男で、
藩主戸田忠恕が強制隠居させられた為、
養子となって家督を継ぎました。
幕府に睨まれた経緯から佐幕派として行動し、
慶応3年より奏者番寺社奉行を兼任。
賊軍となった徳川慶喜の助命嘆願の為、
藩兵を率いて上洛しようとしますが、
道中の近江国大津で新政府に抑留。
宇都宮の戦いが新政府軍の勝利に終わると、
一時隠居させられますが、
許されて1万石の加増を受けています。
大正13年、死去。


戸田家合葬墓」。
宇都宮の戦いで英厳寺は焼失。
寺域は殆ど壊滅しました。
その際に歴代藩主の墓石も破壊された為、
新たに合葬墓が建立されています。
刻まれているの被葬者は、
土佐守従五位下戸田尊次(初代)
因幡守従五位下戸田忠能(2代)
山城守兼侍従従四位戸田忠昌(3代)
山城守兼侍従従四位下戸田忠眞(4代)
越前守従五位下戸田忠余(5代)
伊賀守従五位下戸田忠盈(6代)
因幡守兼侍従従四位下戸田忠寛(7代(初代))
越前守従五位下戸田忠翰(8代(2代))
日向守従五位下戸田忠延(2代(3代))
山城守兼侍従従四位下戸田忠温(2代(4代))
因幡守従五位下戸田忠明(2代(5代))
九鬼久子(忠能室) 秋元勝子(忠昌室)
毛利志野子(忠眞室) 戸田梅子 戸田貞子
本多連子(忠寛室) 松平結子(忠翰室)
有馬庭子(忠延室) 阿部純子(忠温室)
※二重カッコ内は宇都宮藩の代数。


水戸之役戦死之碑」。
天狗党の乱での藩兵の戦功を称えた碑。
宇都宮藩は幕命で筑波勢追討の兵を送り、
田彦宿那珂湊で戦死者を出しています。
狭い場所で全体が写し辛い。

ちなみに備中松山藩主老中首座も務め、
徳川慶喜大坂城逃亡に同伴した板倉勝静は、
新政府によって宇都宮藩預かりとなり、
この英厳寺に軟禁されていました。
旧幕府軍は宇都宮城下に迫ると寺町を放火し、
混乱に乗じて英厳寺の庫裏から板垣を救出。
以後板倉は奥羽越列藩同盟の参謀となり、
箱館まで旧幕府軍と行動を共にしています。

■関連記事■
東京都中野区 松源寺/戸田家墓所
 宇都宮藩戸田家の江戸墓所。
栃木県宇都宮市 宇都宮城跡
 宇都宮藩戸田家の居城跡。
福岡県福岡市 崇福寺/福岡藩黒田家墓所
 空襲によって破壊された黒田家墓所。
試撃行日譜④
 高杉晋作は宇都宮を訪問。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です