長崎県大村市 斎藤道場跡

玖島城下の武家屋敷通りのひとつ、
上小路斎藤道場跡があります。


斎藤道場(微神堂)」。
大村藩に招かれた剣術指南役斎藤歓之助は、
道場を開いて[微神堂]と名付けました。
藩が神道無念流を正式に推奨した為、
殆どの藩士達が神道無念流に転じ、
他の流派を学ぶ者が居なくなったという。

歓之助は練兵館創立者斎藤弥九郎の三男で、
剣術に優れ六尺を超える体格を誇り、
鬼歓の異名を持っていました。

で長州藩士らを打ち負かした兄新太郎が、
黄金の鳥籠に雀を飼っているようなものだ
と発言したのに立腹した長州藩士らは、
徒党を組んで江戸の練兵館に乗り込みます。
そこに居たのが当時17歳だった歓之助で、
長州藩士らを次々と突き伏せたという。
これにより長州藩は神道無念流を評価し、
多くの藩士が練兵館で学びました。
後に桂小五郎塾頭にもなっています。

大村藩が神道無念流を評価したのには、
桂の前代塾頭荘勇雄の口添えとされ、
荘が藩主や家老の父に働きかけ、
歓之助が召抱えられることとなります。

そして神道無念流が藩で全盛するに至り、
殆どの藩士が門下となることで、
政情も変化する事となります。

荘勇雄、長井兵庫ら佐幕派門下と、
渡邊昇柴江運八郎ら勤皇派門下が対立し、
勤皇派が実権を握るようになると、
勤皇派家老針尾九左衛門や藩儒松林飯山が、
襲撃されるという事件が起こります。
これを渡邊らは佐幕派の犯行と断定し、
長井は犯行を指示したとして捕縛され獄死。
荘は江戸の練兵館に匿われてましたが、
渡邊は師である斎藤弥九郎を脅し、
歓之助を人質として荘の潜伏先を聞き出し、
荘は潜伏先を突き止められ自害。
師まで巻き込む渡邊の非情な行動によって、
大村藩は勤皇倒幕へと進む事になります。

歓之助自体は中風を患っており、
自身の手足が不自由になって、
剣を振ることも出来ない体だったようで、
門弟への指南は続けていたようですが、
門下の暴走を止める事は出来ませんでした。

後年、非情の行動を取った渡邊昇は、
官職や議員などを歴任し、
剣術の振興にも貢献していますが、
幕末期に殺した政敵の亡霊に悩まされ、
書生に体を揉ませながらでないと、
眠りにつけなかったと伝えられてます。

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