増上寺での4代将軍徳川家綱法要の席で、
鳥羽藩の藩主内藤忠勝が乱心し、
宮津藩藩主永井尚長を殺害。
※増上寺刃傷事件。
この事件で下手人の忠勝は切腹となり、
鳥羽内藤家は改易処分となりましたが、
被害者の宮津藩永井家の方でも、
喧嘩両成敗によって改易されました。
しかし一方的に斬り付けられたという事で、
永井家側に情状酌量の余地があるとして、
尚長の弟永井尚圓に再興が許され、
大和新庄藩が立藩しています。
大和新庄藩は桑山家が支配していましたが、
別の法要で勅使に不敬があったと改易され、
※このあたりの話には諸説があります。
その後に永井家が入封しました。
大和新庄藩8代藩主永井直荘は、
藩庁を櫛羅に移して陣屋を建設し、
大和新庄藩から櫛羅藩となっていますが、
この移転は直荘が若年であることから、
先代藩主の7代永井直幹か、
重臣らの主導で行われたものでしょう。
ちなみにこの櫛羅藩の永井宗家は、
池田恒興を討ち取った永井直勝を祖とし、
後に池田輝政が徳川家康の次女を娶る際、
父の死に様の様子を聞いたとされ、
その当時の直勝の石高が5千石と聞き、
父が5千石程度の価値かと嘆いたという。
輝政は家康に直勝の加増を働きかけ、
直勝は7万2千石を領するに至りました。
勿論直勝自身の力も大きかったようですが、
何らかの力は働いていたと思われます。
「櫛羅陣屋跡」。
岸野山という丘陵が選ばれて、
陣屋が建設されていますが、
その跡地は私有地となっており、
中には入れないようです。
遺構もあまり残っていない様子で、
しかも訪問時は雨が降っていました。
周辺の九品寺や民家に、
玄関や門が移築されているようですが、
今回は訪問していません。
櫛羅に陣屋を移した直荘でしたが、
慶応元年に20歳で死去。
家督は養嗣子の永井直哉が継ぎ、
藩主として初の領内入りを果たしました。
鳥羽伏見の戦いの後には、
直哉が櫛羅陣屋から上洛しており、
新政府に恭順しています。
【大和新庄藩→櫛羅藩】
藩庁:新庄陣屋?→櫛羅陣屋
藩主家:永井宗家
分類:1万石、譜代大名(定府)
■関連記事■
・奈良県葛城市 新庄陣屋跡
移転前の藩庁とされますが諸説あり。
・岐阜県岐阜市 加納城跡
同族の加納藩永井家の居城跡。
・大阪府高槻市 高槻城跡
同族の高槻藩永井家の居城跡。