お亀の方は美濃斎藤家家臣竹腰正時に嫁ぎ、
竹腰正信を生みますがすぐに正時と死別。
後に豊臣家家臣石川光元の側室となり、
石川光忠を出産していますが、
光元正室の嫉妬により離縁されています。
その後に徳川家康の側室となったようで、
家康の八男仙千代(6歳夭折)と、
九男の徳川義直を生みました。
この縁で正信も徳川家に召し抱えられ、
5千石で駿府に移った家康の側近となり、
義直の後見として5千石を加増され、
尾張藩の御附家老となっています。
※光忠も尾張藩に召し抱えられており、
3家が御附属衆として続きました。
その後も加増されて3万石となりますが、
御附家老という家臣的な存在であった為、
独立した大名とはみなされませんでした。
この3万石の領地を経営するにあたり、
今尾に陣屋が設置されています。
「海津市立今尾小学校(今尾陣屋跡)」。
元は斎藤家家臣中島重長が築いた今尾城で、
中島家が織田信長に滅ぼされた後は、
織田家家臣が何人か入り、
豊臣秀吉の時代に吉村氏吉、
市橋長勝が城主となりました。
その後、竹腰正信に今尾が与えられると、
今尾城は一国一城令により廃城され、
跡地に陣屋が建てられています。
「今尾城跡(関ケ原の戦い)」説明板。
尾張藩御附家老の今尾陣屋の事よりも、
関ケ原の戦いの今尾城の方が推しが強く、
立派な説明板が設置されています。
関ケ原当時の今尾城主は市橋長勝で、
松ノ木城の徳永寿昌らと共に、
福束城の丸毛兼利を攻め、
大藪村大榑村の戦いで勝利し、
兼利は大垣城へ後退。
高須城も攻めて城主高木盛兼を追放し、
東軍勝利に貢献したと書かれています。
「史跡 今尾城址」碑。
校庭にある今尾城の跡碑。
廃城された後に今尾陣屋が建てられますが、
陣屋の遺構らしきものもありません。
従って今尾城の遺構も皆無でしょう。
「竹腰正美之碑」。
今尾小学校前の民家に建てられている石碑。
竹腰正美は幕末の当主竹腰正富のことで、
藩内佐幕派「ふいご党」に近い存在として、
安政の大獄で藩主徳川慶勝が隠居し、
慶勝の弟徳川茂徳が新藩主となると、
正富が藩政を取り仕切っています。
しかし桜田門外の変で井伊が暗殺されると、
状況が一変して失脚。隠居を命じられ、
養嫡子竹腰正旧に家督を譲りました。
竹腰家は幕府が倒れた事により独立し、
犬山藩成瀬家と共に承認されていますが、
その所領3万石のうち、
尾張藩より与えられた1万石を、
返却するように命じられています。
この返却が今尾藩の財政を圧迫し、
新政府に1万石の再返還を要求。
明治3年に返還を認められましたが、
翌年の廃藩置県で今尾藩は廃藩しています。
【今尾藩】
藩庁:今尾陣屋
藩主家:竹腰家
分類:2万石、維新立藩
■関連記事■
・岐阜県海津市 常榮寺/竹腰家墓所
竹腰家の領内菩提寺。
・愛知県犬山市 犬山城①
もうひとつの御附家老成瀬家の居城跡。
・岐阜県海津市 高須陣屋跡
隣藩の高須藩尾張松平家の陣屋跡。
・岐阜県岐阜市 加納城跡
隣藩の加納藩永井家の居城跡。
・岐阜県大垣市 大垣城
隣藩の大垣藩戸田家の居城跡。