敵方の動向を探る一番有効な手段は、
間者(スパイ)を潜り込ませることでしょう。
幕府は各藩に隠密を潜り込ませましたし、
諸藩も京都や江戸等の各地に探索方など、
間諜を出していたらしい。
新撰組にも間者がいたようですし、
隊士も間者として粛清されています。
※これについての正否は不明。
壇ノ浦砲台と前田砲台を結ぶ山陽道に、
杉ヶ谷という場所がありました。
街道沿いの片方は杉並木で、
もう片方は断崖というさみしい場所で、
そこに物乞いの躄がいました。
※躄=いさり、足が立たない人。
躄はたまに物乞いに出向いていたようで、
不自由な足で周辺を移動していたという。
慶応元年5月のある日の事、
突然の雷雨が下関を襲った為、
その躄はたまらず立ち上がって走り出し、
自分のねぐらに逃げ込んだという。
偶然にも街道沿いの茶屋の主人が見て、
躄が立って走ったのを不審に思い、
長府藩の奉行所に報告。
奉行所はすぐさまその躄を捕縛すると、
その躄は会津藩の間者でした。
間者の名は神戸岩蔵といい、
彼は会津藩士神戸内蔵の二男で、
兄神戸民治が刃傷事件で謹慎処分を受け、
家名回復を望んで藩の役に立ちたいと、
長州に潜入することを買って出たという。
父が江戸勤番だったために会津訛りがなく、
間者としてうってつけだった岩蔵は、
馬関や長府の情報を京都に送っていました。
間者の斬首は常でしたが、
岩蔵の態度があまりに立派だったので、
取調役が殺すには惜しいと感じ、
長府藩への仕官を薦めます。
しかし岩蔵は、
「親切は有難いが二君に仕えずの諺もあり、
まして敵国の臣となるわけにはいかない」
と丁寧に断ったようで、
そのうえで切腹を願ったとされ、
叶わぬならば自分の刀の斬首を願いました。
残念ながら切腹は許されませんでしたが、
望み通り彼の刀で斬首されます。
岩蔵が斬首されたのは道玄堂山という山で、
当時は牢死人を埋葬していた場所らしい。
中国電力中六波町アパート横の階段から、
道玄堂山に入れます。
階段を登ると立札が建てられており、
「舊会津藩士 神戸岩蔵綱衛 墓地入口」
と書かれています。
そこからは竹藪の道。
進むと小さな墓石が集まった場所に着く。
罪人たちの墓石でしょうか?
孟宗竹が倒れて大変なことになっています。
先ほどの墓石群があった場所が、
山の頂上付近だったようで、
そこから下りの道があるのですが、
四方から孟宗竹が倒れており、
道と言える代物では無くなっています。
竹をかき分け道を下って行くのですが、
途中にちらほらと倒れた墓石が見られ、
これらも罪人の墓と思われます。
「舊会津藩士 神戸岩蔵綱衛」。
結構下った先でやっと見つけたました。
手前に倒れた大きな墓石があるので、
それが目印になります。
この神戸岩蔵の墓については、
色々と疑問があるようです。
何故間者の墓石が建てられているのか?
そして何故岩蔵の墓だとわかったのか?
僕なりの推測ですが[毛利家乗]には、
「会津ノ士神戸綱衛ト称スル者
来リ留ル数月病死ス」
とあり[病死]となっています。
基本的に密偵は殺されるのが普通ですが、
殺した方は公にはできません。
何故なら密偵を殺すという事は、
知られたくない事をしているから。
領内に他藩士が潜伏している事も、
見聞きした事を手紙で送る事も、
別に罪ではないので殺す理由にならない。
だから[病死]としたわけで、
本来の刑場である松小田刑場ではなく、
道玄堂山で殺したのはそういう訳でしょう。
墓を建てたのは他藩士が領内で死ぬと、
ねんごろに弔ってやるのが礼儀。
公式に[病死]としているからには、
墓を建てなければならなかった。
とはいえ山中に点在する墓石から、
罪人も墓が建てられていた可能性もあり、
墓があるのは普通だったのかもしれません。
では何故これが岩蔵の墓石とわかったのか?
これは昭和62年11月に、
地元史家斎藤純一氏が2年掛け発見し、
翌年に慰霊祭を執り行ったとされます。
故人の斎藤氏から聞く事は出来ませんが、
おそらく当時はまだ戒名が読み取れて、
笑山寺にあったとされる位牌の戒名と、
没年月日より特定できたのでしょう。
岩蔵の所持していた刀は、
長府報国隊軍監熊野直介が貰い受け、
北越戦争に持って行ったとされますが、
熊野は越後今町の戦いで戦死。
会津藩兵との戦いだったようです。
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