日本VSロシアといえば、
真っ先に日露戦争を思い浮かべますが、
何度も戦っており結構な因縁があります。
日ソ中立条約を一方的に破り、
満州や千島列島、樺太に侵攻し占領。
火事場泥棒のような非道も行っています。
※その頃はソビエト連邦。
千島列島の占守島では、
終戦後の武装解除後の守備兵らが、
突然押し寄せてきたソ連兵に善戦。
ソ連は日本の3倍近い死傷者を出しました。
これがソ連の南下を遅らせる事となり、
日本分断を防いだともされています。
しかし停戦交渉の末に降伏した日本兵は、
シベリア抑留という悲劇が待っていました。
その前は日露戦争。
旅順、奉天、日本海と苦勝しながらも、
辛くも日本が勝利します。
戊辰戦争に参加した軍人達が、
まだ現役だった時期でした。
これらが知られている対露(ソ)戦ですが、
実は江戸時代にもロシアと争っています。
江戸後期よりロシアの商人達は、
通商を求めて蝦夷などに来航しますが、
鎖国していた幕府や松前藩は、
これを頑なに拒否してきました。
そこでロシアは遣日使節ラクスマンを、
寛政4年に正式に蝦夷に派遣しますが、
幕府役人はその親書を受け取らず、
通商等の要求は長崎で行ってくれと断り、
長崎への入港許可証を交付しました。
後に外交官レザノフが入港許可証を携え、
文化元年に長崎出島に来航します。
しかし幕府は半年交渉を引き延ばした挙句、
通商を断ってしまいます。
レザノフはロシアに帰国した際、
「武力で要求する方法しかない」と主張。
幕府も通商を断ったという事で、
ロシアが攻めてくると感じたようで、
津軽藩と南部藩に警備を命じます。
そして文化3年。
レザノフの部下であったフヴォストフは、
武装商船で樺太の松前藩陣屋を襲撃し、
略奪、放火、日本人を拉致して帰還します。
翌文化4年に択捉島へ上陸したロシア兵は、
幕府の会所を襲撃。
武器の差に衛兵は苦戦しましたが、
ロシア兵は夕刻で船に退却し、
夜には艦砲射撃で威嚇します。
これに戦意喪失した幕兵は後方に退却。
撤退した幕府会所にロシア兵が入って、
食料、武器、金品を略奪して放火し、
そのままロシアに帰還しました。
※皇帝の許可無しの独断行為とされます。
これはレザノフの命令なのか、
フヴォストフの独断なのかは不明です。
これをフヴォストフ事件又は、
文化露寇と呼ばれており、
国防の重要性が認識され始めました。
これはペリー来航の約半世紀前のお話。
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